ヘロドトス(ヘーロドトス、古希: Ἡρόδοτος, Hēródotos、羅:Herodotus、生没年不詳)は、古代ギリシアの歴史家である。歴史という概念の成立過程に大きな影響を残していることから、歴史学および史学史において非常に重要な人物の1人とされ、しばしば「歴史の父」とも呼ばれる。
彼が記した『歴史』は、完本として現存している古典古代の歴史書の中では最古のものであり、ギリシアのみならずバビロニア、エジプト、アナトリア、クリミア、ペルシアなどの古代史研究における基本史料の1つである。
生没年は不詳であり、生年は大雑把に前490年から前480年までの間とするのが定説である。前484年説がしばしば採用されるが、明確な根拠を伴ったものではない。没年は前430年以降であることは明白であるが、これも正確には不明である。概ね前490年-前480年の間に生まれ、前430年から前420年の間に、60歳前後で死亡したとするのが一般的である。
生涯
ヘロドトスの知名度・重要性に反して、彼自身の人生について知られていることは少ない。彼の生涯についての情報源は、以下のようなものに限られる。
ビザンツ帝国で10世紀頃に成立したスーダ辞典における、ヘロドトスと関連する事項への言及。
古典古代の作家の断片的な言及。
ヘロドトス自身の叙述から拾い集められる情報。
スーダによれば、ヘロドトスは小アジア南部のカリア地方にある都市ハリカルナッソス(現:トルコ領ボドルム)の出身であり、父親の名はリュクセス、母親の名はドリュオ(ロイオとも)であったという。兄弟にテオドロスという人物がおり、従兄弟(または叔父)に当時高名な詩人パニュアッシスがいた。ハリカルナッソスは、前900年頃にペロポネソス半島にあるアルゴリス地方の都市トロイゼンから移民したドーリス系ギリシア人の植民市であった。しかし前5世紀には、ハリカルナッソスの文化はイオニア化しており、ヘロドトス自身も古代ギリシア語のイオニア方言を話したと推定されている。
また、ギリシア人と土着のカリア人との間の通婚も盛んであり、ヘロドトスの家も同様であった。ヘロドトスの父リュクセス、従兄弟(または叔父)のパニュアッシスはカリア系の名前であるが、母ドリュオ(ロイオ)はギリシア語の名前である。ヘロドトスとテオドロスの兄弟もまた、ギリシア語による命名であることは明白である。ヘロドトスの名前はギリシア語で「ヘラ女神の贈り物」と言う意味である。ヘロドトスの出身家は名門であったようであり、詩人が身内にいることも彼の生まれ育った環境が知的・文化的に恵まれたものであったことを示す。
ヘロドトスが故郷にいたころ、ハリカルナッソスは女傑として名高いアルテミシア1世の統治下にあった。ヘロドトスが彼女を深く尊敬していたことは『歴史』の描写から明確に読み取ることができる。その後、アルテミシア1世の息子、または孫で僭主となったリュグダミスがハリカルナッソスを支配するようになると、ヘロドトスとパニュアッシスはリュグダミスに反対する政争に加わった。しかし、パニュアッシスは殺害され、ヘロドトスも故国を追われてサモスでの亡命生活に入った。リュグダミスに対する反抗はその後も相次ぎ、恐らく前450年代初め頃に彼の政権は打倒された。この過程にも、ヘロドトスは関わったとする見解もある。
ヘロドトスは、サモスにある程度の期間滞在した後、アテナイに行き、ついでイタリアに建設された新植民市トゥリオイに前444年、または前443年に移住した。この都市はアテナイの支配者ペリクレスがギリシア各地から移民を集めて建設した都市であったが、ヘロドトスが参加した経緯は不明である。
ヘロドトスはサモスを去って以降、その人生のうちに少なくともアテナイ、キュレネ、クリミア、ウクライナ南部、フェニキア、エジプト、バビロニアなどを旅したはずであるが、その具体的な年代をどのように想定するべきであるか明確ではない。ただしエジプトとバビロニアを訪れたのは人生の晩年、少なくともトゥリオイの市民であった頃であろう。
彼は、これらの旅で得た知見をまとめ『歴史』と呼ばれる著作を残した。この著作は、失われることなく伝存する古典古代の歴史書の中では最古のものである。この中にペロポネソス戦争に触れた記述を残していることから、ペロポネソス戦争勃発の頃(前431年)にはまだ生存していたと考えられる。最後はトゥリオイで死亡したともアテナイに戻っていたとも言われるが、いずれも明確な証拠はない。
著作
ヘロドトスは、現在では日本語で『歴史』(英: The Histories)と言うタイトルで知られる著作を残した。これは現代風に解釈するならば、全ギリシアを巻き込むことになったペルシア戦争を主題にした1種の同時代史であると言える。この作品冒頭でヘロドトスは、以下のように著者名と執筆の目的・方法を書いている。
これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探求(Ἱστορίαι
ヒストリエー)であって、人間の諸所の功業が時とともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)が示した偉大で驚嘆すべき事柄の数々が、とくに彼らがいかなる原因から戦い合う事になったのかが、やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、書き述べたものである。
—ヘロドトス、『歴史』巻1序文、桜井訳。
序文に記された戦いが全ギリシアを巻き込んだペルシア戦争であり、異邦人(バルバロイ)がペルシア人のことであるのは、当時を生きた人であるならば誤解の余地のないところであった。
この文章はまた、著述の方法として調査・探求(Ἱστορίαι、historia)というギリシア語の単語を用いた現存最古の用例である。最初に著者名を筆記し、執筆にあたっての主体性と責任の所在を明らかにするこの姿勢は、ミレトスのヘカタイオスを意識したものであったと見られる。ヘカタイオスは、ヘロドトスに先行して各ポリスの伝承などを散文で綴っていたロゴグラポイと呼ばれる文筆家の1人であった。このような文章は前4世紀には10例ほどが知られており、ヘロドトスのそれはこうしたものの中でも最古の部類に属する。
ヘロドトスの『歴史』は全9巻からなるが、この9巻分類はヘロドトス自身によるものではなく、アレクサンドリアの学者によるものである。現在に残る『歴史』の全体構成は当初からヘロドトスが構想していたものではなく、後から彼が追補した際に整えられたものであると推定される。少なくとも、最後の3巻部分は最初の6巻部分よりも先に作られていたことを示す各種の内部証拠が存在する。
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