2018/01/07

エレアのゼノン

エレアのゼノン(希: Ζήνων Έλεάτης、羅: Zeno Eleates、英: Zeno of Elea、仏: Zénon d'Élée、独: Zenon von Elea、 紀元前490年頃 - 紀元前430年頃)は、古代ギリシアの自然哲学者で、南イタリアの小都市エレアの人。ゼノンのパラドックスを唱えたことで有名。

学説
アリストテレスによれば、質疑応答により知識を探求する方法(弁証法)は、このゼノンによって初めて発見(発明)された

彼の論法は、もし存在が多であるならば、それは有限であると共に無限であるというような矛盾した結論を、相手方の主張を前提とすることから導き出して、これを反駁するところに特色がある。これらの論証は、パルメニデスの唯一不動の存在の考えを弁護する立場からなされている。この一と多の関係についての議論のなかから、有名なゼノンのパラドックスが提示された。運動不可能を論じた〈アキレウスと亀〉〈飛ぶ矢は動かず〉等の論証は有名だが、特に前者はパルメニデスのものであるとも言われる。「実在するものが世界のすべてであり、変化も運動も存在しない」。これこそゼノンがパルメニデスから継承した命題であり、レウキッポスに影響を与えた。

ゼノンの世界観とは、以下のとおりであったという。
いくつかの世界が存在しており、空虚(虚空間)は存在しない。万物の本質は温・冷・乾・湿の諸要素からできており、そしてこれらは相互に変化するものである。人間は大地から生まれたものであり、魂は先ほどの4つの要素が混合したものであるが、その際、それらの要素のどれ一つも優位を占めない状態にある。

運動のパラドックス
アリストテレスが自らの運動論の展開に利用し、且つ対質しつつ伝えるゼノンの四つ議論は、それぞれが後世いろいろの解釈のもと論ぜられてきた。二分法(dichotomy)は、race courseなどとも呼ばれるが、アリストテレスはもっとも力を入れ、繰り返し論じている。「アキレスと亀」は、もっとも遅い者の代表として、ウサギとカメのイソップ寓話の連想から古くから亀の名が登場している。

二分法
「まず、第一の議論は移動するものは目的点へ達するよりも前に、その半分の点に達しなければならないがゆえに、運動しない、という論点にかんするものである」。この文は二通りに解釈しうる。

前進型解釈
目的点の半分の点にまで到着したとしても、更に残りの半分の半分にも到着しなければならない。更にその残りの半分にも同様、と到着すべき地点が限りなく前に続く故に到着しない。だから運動はない、と見る解釈。

後進型解釈
目的点の半分の点まで到着するには、その前の半分の半分に着いていなければならない。更にその前の半分にも同様、と限りなく先に着いているべき点があり、一歩も進み出得ない。だから運動はない、と見る解釈。
古代から後退型の解釈が優勢であったが、アリストテレスは、これはアキレスと亀と同じ論法であると述べていることからも、前進型と解していたと見られる。

アキレスと亀
「走ることの最も遅いものですら、最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である」。

あるところにアキレスと亀がいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らかなので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。

スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。

ゼノンのパラドックスの中でも最もよく知られたものの一つであり、多数の文献は彼の手に帰しているが、歴史家パボリノスの説によれば、この議論を創始したのはパルメニデスであるという。

その議論やキャラクターの面白さから、アキレスと亀という組み合わせは、この論自体とともに多くの作家に引用された。たとえば、ルイス・キャロルの『亀がアキレスに言ったこと』や、ダグラス・ホフスタッターの啓蒙書『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に主役として登場する。

二つの条件(亀がアキレスの前からスタートする、亀はアキレスより遅い)の下において、追付くか否かが問題とされている。純粋に数学的に見れば、この条件下では、それは定まらない。ゼノン式に捉えたとしても、それは同じである。従って、ゼノンの誤りは、何れとも決せられないことであるのに、一方を断じていることである。そのことはアリストテレスを始めとする、ゼノン式の捉え方そのものが問題を孕むのだとする論議は、追付かないケースもある事を見ていない限りにおいて、何処かに問題を孕んでいる可能性があることを示唆している。

飛んでいる矢は止まっている
「もし、どんなものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止しており、移動するものは今において常に、それ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない、とかれは言うのである。」

アリストテレスは続けて、「この議論は、時間が今から成ると仮定することから生ずる」と述べている。この言から、ゼノンも「時間が瞬間より成る」を前提としていると解される。瞬間において矢は静止している。どの瞬間においてもそうである。という事は位置を変える瞬間はないのだから、矢は位置を変えることはなく、そこに静止したままである。ゼノンの意が単純にこうであったのかは、確定的な事ではない。

アリストテレスは、時間が「不可分割的な今から成るのではない」としてゼノンを否定する一方、「今においては運動も静止もありえない」として、疑似的な論議と見ている風もある。数学的に見れば、瞬間においては運動も静止もないと見ることも可能であるが、同時に、運動方程式は瞬間における速度を示し得るのであって、言葉の定義の問題に過ぎない。しかし、前者の否定は成り立たない。時間が瞬間より成るとしても、運動は否定され得ない。時間が連続体であれば、時間が瞬間=点よりなり、矢が瞬間=点においては静止しているとしたとしても、動くことは出来る。近代解析学においては、ゼノンの結論は否定されるが、アリストテレスの論議も否定される。

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