以上の四つのパラドックスは、くりかえしますが、はじめの二つは「時間・空間は無限に分割される」という前提でした。ところが、それは理屈の上で困ったことになったのでした。一方、おしまいの二つは、今度は逆に「時間・空間は一定の定まった広がりを持つ」という前提だったのです。ところが、ここでも、理屈の上では困ったことになったのでした。どう前提をたてても「駄目」という論が示されたのです。
もちろん、これは再三断っているように「理屈だけで考えてみれば」という「思考実験」のようなもので、パルメニデスやゼノンが呼吸もせず、食事もとらず、歩くこともせず暮らしていた、などということを言っているわけではありません。
ところで、わたしたちはそうして暮らしながら、その暮らしの日々におきてくることを「当たり前」と信じ込み、それに改めて問い掛けてみるなんてことはしません。経験されることは「当たり前」のことなのです。しかし、もしこんな態度のままでいたなら「地球は動かない」ことは常識のままであり、物が落ちることも当たり前のことであり「重力とか引力」とか改めて問題にされることもなかったでしょう。
ニュートンもアインシュタインも生まれず、非ユークリッド幾何学(これは二点を通る平行線は永遠に交わらない、とするギリシャ以来のエウクレイデスによる幾何学を否定したもので、今日、この宇宙の在り方はこの非ユークリッド幾何学の方がうまく説明できるとされています)も決して生まれなかったでしょう。哲学や科学、総じて学問の多くはこうした「思考実験」的なところから生まれてきていることが多いのです。パルメニデスやゼノンは、そうした「経験世界に惑わされずに」ただ「理性」だけを働かせて思考した、その最初の実例だったのです。
ところで一方、これはこれまでのような世界の説明に対して、決定的なパンチをくらわしたようなもので「水」にせよ「ト・アペイロン」にせよ「アエール」にせよ、何にせよ「一つのもの」からの生成というのは、このパルメニデスを論破しない限り、主張できないことになってしまいました。なぜなら「一つ」という限り、それはパルメニデスが言う通り、じっと凝り固まって「動くことができない」ことになりそうだからです。
しかしこのままでは、この自然世界が説明できません。経験世界を救わなければなりません。こうして、自然学者たちはどうしたかというと、パルメニデスを論破する代わりに(できそうにない、と考えたのでしょうか)、「一つ」のもとのものという考え方をやめにしたのです。はじめから「もとのものは多」だ、としておけば、それならこの「多」は作用し合う筈ですから(そういう風にしておきました)、運動も生成も起きてきます。
こうして、パルメニデス以降は「もとのもの」を「多」とする方向へと行きました。こうした自然学者を「元」を「多」とした人々、ということで「多元論者」と呼んでいます。「学の継承」というのは、こんな風にしてどこまでもつづけられたのです。
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