2004/10/03

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲(第3楽章)



 この曲が「四大ヴァイオリン協奏曲」と称されることが多いのは前回触れた通りだが、実のところ有名な「三大ヴァイオリン協奏曲」(ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン)などと比べ、最初に聴いた時は「この曲の、どこがそんなに良いのか?」と首を傾げざるを得なかった。

ハンスリックの批判にあったように、旋律の下品さ、技巧性のわざとらしさ、全体に安酒のような趣味の悪さ、うらぶれた酒場のような小汚さといった、チャイコフスキー特有の「泣き節」が随所に溢れた曲なのである。が、裏を返せば、これらこそがチャイコフスキーの魅力そのものとも言える。特に実演での派手な演奏効果こそは、まさにエンターテイナー・チャイコフスキーの面目躍如たるものがあるはずだ・・・と実演に接したことがないが、動画を見るだけでも容易に想像はつこうというものである。

そして、この作品の素晴らしさを確信していたブロドスキーは、初演の失敗にもめげることなく、あちこちの演奏会で地道にこの作品を演奏して回った。このようにして、たった一人の理解者の努力により、遂に後の「四大ヴァイオリン協奏曲」の真価が、ようやく認められることになっていったのである。

その後、この作品の真価が広く認められるようになると、ついには「演奏不可能」と斬って捨てたアウアーまでが、この作品を採り上げるようになっていったが、演奏する上でやはり様々な問題があったらしく、アウアーはこの作品を採り上げるに際して、いくつかの点でスコアに手を加えた。そして、原典尊重が金科玉条にようにもてはやされる今日のコンサートにおいても、アウアーによって手直しをされたものが用いられている事も見ても、最初に「演奏不能」と評したのは、満更根拠のない話ではなかったのである。

この曲は作曲者のピアノ協奏曲と同様、第1楽章が全体の半分を占めるほど長大(約20分)ではあるが、アウアーに「演奏不可能」と評されるほど刺激的なこの最終楽章こそは、最大の聴きどころである。

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