今日のコンサートプログラムにおいて「交響曲」というジャンルは、最も重要なポジションを占めています。しかし、この音楽形式が誕生の初めから、そのような地位を占めていたわけではありません。ハイドンがその様式を確立し、モーツァルトがそれを受け継ぎ、ベートーヴェンが完成させたといって大きな間違いはないでしょう。
特に重要なのが、この「エロイカ」と呼ばれるベートーヴェンの第3交響曲です。ハイリゲンシュタットの遺書と、セットになって語られることが多い作品です。人生における危機的状況を潜り抜けた一人の人間が、そこで味わった人生の重みを総て投げ込んだ音楽となっています。
ハイドンからモーツァルト、そしてベートーヴェンの1.2番の交響曲を概観してみると、そこには着実な連続性を見ることができます。例えばベートーヴェンの第1交響曲を聞けば、それは疑いもなくモーツァルトのジュピターの後継者であることを誰もが納得できます。そして第2交響曲は、1番をさらに発展させた立派な交響曲であることに異論はないでしょう。
ところが、このエロイカが第2交響曲を継承させ発展させたものかと問われれば、躊躇せざるを得ません。それほどまでに、この二つの間には大きな溝が横たわっています。
エロイカにおいては、形式や様式というものは二次的な意味しか与えられていません。優先されているのは、そこで表現されるべき「人間的真実」であり、その目的のためにはいかなる表現方法も辞さないという、確固たる姿勢が貫かれています。
たとえば、第2楽章の中間部で鳴り響くトランペットの音は、当時の聴衆には何かの間違いとしか思えなかったようです。第1、第2という素晴らしい「傑作」を書き上げたベートーヴェンが、どうして急にこんな「へんてこりんな音楽」を書いたのかと訝ったという話も伝わっています。それほどまでに、この作品は時代の常識を突き抜けていました。
しかし、この飛躍によってこそ、交響曲がクラシック音楽における最も重要な音楽形式の一つとなりました。いや、それどことろか、クラシック音楽という芸術そのものを新しい時代へと飛躍させました。
事物というものは着実な積み重ねと前進だけで壁を突破するのではなく、時にこのような劇的な飛躍によって、新しい局面が切り拓かれるものだという事を改めて確認させてくれます。
第1楽章
この楽章で描かれる世界は壮絶です。英雄的な壮大なテーマが奏でられると、すぐそれを押し潰そうとする悲痛な響きが襲う、すると「なにくそ!」と叫ばんばかりに、さらに力強くテーマが奏でられる。まるで自分の身に降りかかる肉体的、精神的、芸術的な困難を総てぶっ壊して、まったく新しい世界を創造しようとしているようです。まさに何度ぶち倒されても立ち上がってくる不屈の精神が描かれてます。
交響曲1番および2番にあったゆっくりした序奏を欠いている。但し、主部の冒頭に(修飾がつくこともあるが)2回和音が響き、3度目からメロディーが流れていくというリズムパターンは第1番から第4番まで共通しているのでは、と指摘している学者もある。
ベートーヴェン自身のそれ以前の作品と比較しても格段に大規模であり、特にコーダの部分が第2の展開部といえるほど充実していることが特徴的とされる。
3拍子であることに改めて注意したい。日本の間抜けな音楽教育からすると、3拍子はワルツのようなものである。なので3拍子で勇壮な音楽が存在するということは、その固定観念からは容易に想像できない。
3拍子の第1章は、他に何があるだろう。なかなか思いつかない。すぐに出てくるのはベートーヴェンの第8番、ブラームスの交響曲がいいところであろう。しかし、どちらも勇壮というほどではない。この3拍子を劇的なソナタ形式に高めたのは、交響曲全体を見ても以前の曲より飛躍的に進歩した「英雄」であるというのだから、痛快である(2拍子で同じような曲ができただろうか)
この楽章の特徴は「第9」第1楽章に通じる豊富な楽想だろう。主題と呼べるものが多数出現する。勿論、幾つかは第1主題などから派生したという分析になるだろうが、聴いている間はそんなことは関係ない。ともかく、豊かさが明確にわかるわけだ。そして展開部の後半で、第3の重要な主題が現れる。とにかく展開部は何をしてもいいのである。そして面白いのは、最後の最後まで決して流れは途切れることなく、終結の場を見事に演出している。
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