2005/02/03

有馬温泉

  《『有馬郡』の『有馬』が有馬温泉から来たものである事については、疑う余地がないように思われる。有間皇子も、有馬に所領があった事から来た呼び名である。皇子の名からもわかるように、昔は『有間』と表記していた。『有馬郡』も『有間郡』であったわけだ。

《有馬温泉については後述するとして、まず『有馬』の語源についてであるが、残念ながら諸説あって定説がないのが現状である。ただ強いて一説を紹介するならば『有馬』=アイヌ語語源説というのがある。その説によると『アリマ』はアイヌ語で『燃える谷』を意味するというのである。何やら、有馬温泉を連想させるではないか。全国各地の地名とアイヌ語との間に、広範囲にわたり関連性が見出せることについては、従来からしばしば指摘されているところである》

《最近のミトコンドリアDNA分析で、現代アイヌ人のDNAが原日本人である縄文人と極めて顕著な類似性(同一性といってもいいほどの近似)を示したことを考えると『有馬=燃える谷』説の真偽のほどは別にして、アイヌ語を語源とする地名が日本各地に点在していたとしても、さほど不思議な事ではないと思われる(ミトコンドリアDNAは、普通の細胞の核にあるDNAと異なり、母系だけに同一塩基配列のDNAが継承されていくため、先祖の特定に有効な分析手法である)》

 《また一方、日本の古代語研究によれば、万葉集などで山をアリと表現するケースが多い事から、有馬は古代語で『山間の土地』を指すという説もある。有馬温泉は伝説によると神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(とすくなひこなのみこと)が発見したとされる。また『釈日本記(しゃくにほんぎ)』(鎌倉末期に成立した日本書紀の解説書)の中にある摂津風土記逸文によると、有馬温泉は嶋大臣(しまのおおきみ)(蘇我馬子の別称)の頃に初めて有馬温泉と呼ぶようになったのであって、それまで土地の者は『塩湯』と呼んでいたとある》

631年と638年の二度、舒明天皇が行幸され、孝徳天皇の時代には行宮(あんぐう:天皇が行幸される際の仮宮)も建てられている。その証拠に孝徳天皇は647年(大化三年)十月、群卿大夫を従えて湯治に来られ、年末まで滞在されたという記録が残っている。また『延喜式神名帳』には、有馬郡内の座として有馬神社と温泉神社の名も見える・・・云々》

 ≪神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神が有馬の地に降臨された折、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴びをしていました。数日してカラスの傷が癒えたのを見て、不思議に思われた二神が調べられたところ、この水たまりが実は効能たかい温泉だとわかりました。これが万病に効くという有馬温泉が世に知られる始まりです。この後、三羽のカラスと二神は有馬の守護神として崇められています。願の庭には三羽烏と行基上人の像があります。また、大己貴命と少彦名命は湯泉神社に祭られています≫

 ≪むかしむかし、行基上人(ぎょうきしょうにん)という名高いお坊さんがいました。上人はとても情け深い方で、人々に大変愛されていました。ある時、有馬へ向かう途中、病人が倒れているのを見つけました。

 「どうしたのじゃ」

「有馬の湯に入って病気を治したいのですが、食べ物を買うお金がありません。その上、わたしは、新しい魚しか食べられないのです。」

すると、上人は長州(尼崎市)まで行き、新しい魚をどっさり買ってきて、病人に食べさせました。

魚を食べた病人は、今度は「皮膚が痛くてたまりませぬ。あなたの情けで肌をなめてください」と言いました。上人は、少しもためらわずに言われたとおりに肌をなめました。するとどうでしょう、病人の体から光が発して薬師如来様になりました。

「私は温泉山の薬師如来です。あなたの情け深い心には感心しました。これから、有馬に行って、病の人々を助けてあげなさい。私もそれを助けましょう」

そう言うと如来様は、さっと消えてしまいました。

有馬に着いた上人は薬師如来をお祭りする温泉寺を建てて、病の人々を慰めたり励ましたりしました。

温泉寺には薬師如来と行基上人の像が安置されています≫

 ≪むかしむかし、神戸周辺に幾日も幾日も雨が降り続いたことがありました。そのために有馬も湯が湧き出なくなり、見るかげもなく寂れていきました。それから百年程たったある年の春のことです。

吉野の仁西上人(にんさいしょうにん)というお坊さんが修行をしていますと、権現様が現れました。そして「摂津の国、有馬山に温泉がある。病気によく効くので行って温泉を開きなさい。庭の木のクモに道案内をさせます」とお告げになりました。

あくる朝、上人はさっそく有馬温泉を探しに出かけました。険しい六甲の山道を登るクモの後を追って行ったのですが、突然クモの姿が消え、どこへ行ったか分かりません。

上人が途方にくれていると、真っ白いひげの老人が現れました。そして木の葉を手にして「これが落ちたところに温泉がある。」と言って東の方へ投げ、ふっと消えてしまいました。上人は「あっ!あれは権現様に違いない!」と南の空に手を合わせて拝み、木の葉を捜しに立ち上がりました。

次の日、山を下った上人は、木の葉を見つけ出し、それが落ちていた所を堀りました。すると、そこから温泉が湧き出たのです。これが現在の有馬温泉です。

行基上人、仁西上人、豊臣秀吉が有馬の三恩人と言われています≫

ポリネシア語による解釈
 神戸市東部、北区有馬町にある温泉で、三方を山に囲まれ有馬川の清流が流れる山紫水明の地です。東の草津、西の道後と並ぶ古い歴史を誇る温泉で、『日本書紀』舒明紀3631)年9月の条および孝徳紀大化3647)年10月の条に天皇入湯の記事があります。8世紀には僧行基が温泉寺を建立、12世紀には僧仁西が湯治客のために12の宿坊を建てて再興の祖と崇められ、16世紀には豊臣秀吉がしばしば入湯しています。

 この「ありま」は

(1)
 「アリ(山間)・マ(土地)」の意
(2)
 「アリ(荒れ)・マ(土地)」の意

とする説があります。

この「ありま」は、マオリ語の「アリ・マ」、ARI-MA(ari=clear,appearance,fence;ma=white,clear)、「垣根(山)に囲まれた清らかな(土地)」  の転訛と解します》
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

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