ウィーンで、既に大作曲家としての確固たる地位を築いていたハイドンのもとに、イギリスの有名な興行師兼ヴァイオリニストのザロモンからのお誘いが舞い込み、老ハイドンはドーヴァー海峡を渡る決意をした。当時(18世紀)は今とは違い、ドーヴァー海峡を渡るのは命の保証もない大冒険でもあった。
「(60歳近い)ご老体が今更、生命の危険を冒してまで酔狂な真似をするのは、お止めなさい。年寄りの冷や水と言うものですよ。第一、言葉も話せないのに・・・」
と、親子ほども年の違う後輩・モーツァルトに諌められたハイドンは
「大丈夫だ・・・私には《音楽》という国際語がある・・・」
という有名な言葉を残した。夢を追い求めていった第二の新天地は、結果的にはハイドンにとって「第二の人生」どころではなかった。
「これぞ、ハイドンの真骨頂!」と後世に広く認められるような、新境地を開拓する結果となったのである。
そのようにして、ロンドンで大いに名声を上げたハイドンは、意気揚揚としてウィーンへ凱旋帰国を果たす。片や、あれほどまでに高齢なハイドンのロンドン行きを案じ、猛反対をした24歳年下のモーツァルトは僅か35歳の若さで、既にこの世を去っていた。
この曲の「軍隊」という愛称は、有名な「トルコ軍楽」の打楽器、トライアングル、シンバル、バスドラムが第2楽章と終楽章の終わりで使われていることによる。この曲は初演の後、引き続いて7回以上も演奏される機会に恵まれたため、その後ハイドンがロンドンを訪れるたびに、必ず人気曲になったと言われる。
18世紀のヨーロッパの宮廷では、トルコがエキゾティシズムの対象であり、様々な「トルコ風音楽」が流行として取り入れられた。軍隊ラッパのような音形がそのまま出て来たり、大太鼓、シンバル、トライアングルと鳴り物が賑々しく活躍する。ただし騒々しいだけではなく、しっとりとした雰囲気や充実感のある響きもあり、円熟期のハイドンらしい完成度の高さである。
このニックネームは、ハイドンの時代からこう呼ばれていたものだが、この「軍隊風」というのは当時流行していたトルコ風とも言える。
出典Wikipedia
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