この第2楽章は、ラフマニノフの真骨頂と言える。低弦楽器に導かれてピアノが静かに瞑想的な伴奏音型を弾き始め、さらにフルートとクラリネットの美しいソロに独奏ピアノが応える。このメロディを聴いて涙を流し、この曲のファンになった人も多いだろう。
弱音器を付けた弦楽器とピアノ、木管楽器が美しく絡みながら進む。3連符が連続するピアノの伴奏の上に、フルート、クラリネットが夢うつつをさまようようなロマンティシズムに溢れたメロディを連綿と歌う。ラフマニノフ一流のリリシズムが、最高に発揮されている部分である。中間部では、ファゴットの高音とピアノとが美しく絡み合う。
父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。 両親とも音楽の素養のある人物だったが、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれた頃には一家はすでにかなり没落していたらしい。
ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で、この地で多感な子供時代を過ごし、4歳の時に母から最初のピアノの手ほどきを受けた。その後、彼のためにペテルブルクからピアノ教師が呼び寄せられ、レッスンを受けた。
9歳の時ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられペテルブルクに移住、まもなく両親は離婚し父は家族の元を去っていった。
セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルグ音楽院の幼年クラスに入学することができたが、彼は教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生で、12歳の時に全ての学科の試験で落第するという事態に陥った。
悩んだ母は、セルゲイにとって従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し、ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになる。ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はチャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院では和声と対位法を学び、後にはジロティにもピアノを学んだ。
ラフマニノフの同級には、スクリャービンがいた。ズヴェーレフは、弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになる。
彼は、父方の伯母の嫁ぎ先に当たるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリアと出会った。この後、彼は毎年夏にタンボフ州イワノフカにあるサーチン家の別荘を訪れ、快適な日々を過ごすのが恒例となった。
1891年、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を「大金メダル」を得て卒業する。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは「小金メダル」)
同年、ピアノ協奏曲第1番を完成した。同校を卒業した19歳の時に、短期間で書きあげたオペラ『アレコ』がチャイコスキーの推挙で、その翌年ボリジョイ劇場で初演されるなど、目覚しい天才ぶりを発揮した。
技巧の完璧さ故に、また硬く強いタッチ故に、また陰気で容易に打ち解けない人柄のせいか、ラフマニノフが冷たく暗いピアニストとされたのも事実である。
ラフマニノフは演奏行為に対して非常に神経質で、エディソンへの最初の録音を未承諾のまま発売されたとしてヴィクターに移籍したり、クライスラーとの録音でも取り直しを要求したりしている。貧相な録音では和音奏法の凄みが発揮されないからであろう、ピアノ・ロールに最後まで固執した。また、1930年代の米国で頻繁に演奏会を行っているにも拘らず、一切のライヴ録音が残っておらず映像記録もない。
出典Wikipedia
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