ポリネシア語による解釈
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
献呈を快諾された晩、ワーグナー夫妻とブルックナーは2時間半程歓談したという記録が遺されている。その際、ワーグナーがしきりにビールを勧めたため、ブルックナーはすっかり酔ってしまい、翌朝ブルックナーは、ワーグナーがどちらの交響曲の献呈を受け入てくれたのか、すっかり忘れてしまった。同席していた彫刻家キースに尋ねると、ニ短調の交響曲についての話でトランペットが話題になっていたと聞き、念のためにとホテルに備付けられた便箋に
「トランペットで主題が始まるニ短調交響曲(の方)でしょうかA・ブルックナー」
と書いてワーグナーに送ったところ、その返事として同じ紙に書き添えて
「そうです! そうです! 敬具。リヒャルト・ワーグナー」
と書かれていたということである。
ブルックナー事典
「さび」または「お祈り」・・・第4番の第1楽章中間部、第5番の第1楽章の中間部に、美しいフレーズが挟み込まれている。この「さび」の後に、前述の「ブルックナー休止」をされると、やるせない気持ちになってしまう。後期の第8番、第9番になると、神への祈りへと変貌しているような、とても切ないものである。これら一連の「さび」の完成型として、第9番・第3楽章の「生への決別」が挙げられる。ここで下降するチューバの四重奏によって、ブルックナーは「死」と「神の臨在」を謳い上げ、自らの持つ芸術の総てを神に捧げたかのようである。
「コーダと終止」・・・コーダ(※)の前は管弦楽が休止、主要部から独立し新たに主要動機などを徹底的に展開して、頂点まで盛り上げる。コーダの前にオーケストラが一旦静かになって、新たな主要動機などを展開して盛り上がった後に最後はトゥッティで終わるが、最後に短い音符で終わる定型手法である。
※コーダ(coda)とは、楽曲・楽章の終わりに終結部として付される部分。ブルックナーの交響曲の素晴らしさを語る上で、その曲の終わり方を挙げないわけにはいかない。
第4番・第4楽章において、すでにブルックナーは自らのコーダのあり方を完成させたといえる。コーダにおけるブルックナーの手法は、主題の再現が終わってから「ブルックナー休止」をした後、おもむろに弦の分散和音が始まり、そこに主題のモチーフを切り取ってまず木管が、次いで金管が会話を繰り返すうちに参加する人数を増やしいく。やがて「ブルックナー・ユニゾン&ゼクエンツ」状態に至り、フルオーケストラによるパワー全開の演奏をもって終わるものである。
他にも、ブルックナーの独特の和声法で、半音による和音を重ねる一種の不協和音を「ブルックナー対斜」と言う事もある。これら他の作曲家には見られない、独特の形式を知っておくとブルックナー理解への早道となるのである。
1873年8月、ブルックナーはこの作品と旧作の第2交響曲の楽譜を持って、バイロイトのワーグナー宅を訪問している。風采の上がらないブルックナーを見て、ワーグナー夫人のコジマは「物乞い」と勘違いしたという。その頃のワーグナーは、バイロイト祝祭劇場建設のプロジェクトに忙しく、献呈に興味を示さず殆ど門前払いの形でブルックナーを帰らせた。が、後で楽譜を見て感動し、劇場建築現場に佇んでいたブルックナーを連れ戻して抱きしめ
「私はベートーヴェンに到達する者を、ただ一人知っている。ブルックナー君だよ」
と称賛した。
この、なんだか訳の分からないブルックナーの音楽を日本に紹介する上で、最も大きな功績があったのが朝比奈隆と大阪フィルのコンビである。彼らは、マーラーブームやブルックナーブームがやってくるずっと前から、定期演奏会でしつこく何度もブルックナーを演奏していた。その無謀とも思える試みの到達点として、1975年のヨーロッパ演奏旅行における伝説の聖フローリアンでの演奏が生まれる。このヨーロッパ演奏旅行で自信を深めた彼らは、その帰国後にジャンジャンという小さなレーベルで2年をかけてブルックナーの交響曲全集を完成させた。
このレコードは、その後「幻のレコード」として中古市場でとんでもない高値で取引されるようになり、一般人では入手が困難になっていたが、数年前に良好な状態でCD化され、ようやく庶民の手元にも届くようになった。ブルックナー指揮者として、その名を世界に轟かせている朝比奈隆が、ブルックナーの第3番についてはかなり低い評価しかしていないことが、この文章を読むとよく分かる。
朝比奈は、他にもこの本の中で演奏効果が上がらないことをこぼしている。演奏する立場から見れば、ブルックナーの第3番は難物なのだろう。が、アダージョは、室内楽的という言葉を超越するほど美しく、こんなブルックナーはザラには聴けない。
ブルックナー事典(6)
「ブルックナー・リズム」・・・4拍子の後半の2拍を3連符とするものや、前半を3連符にするもの。ゼクエンツと共に用いられる事で、より効果を上げる。2連符+3連符のリズムパターン。当初書いていた5連符では「演奏困難」という弟子たちの意見を受け入れ、この形に直したと言われる。人の言う事に左右されがちな、おどおどした不器用なブルックナー。一つの曲に、多くの版が存在する理由の一つ。
ブルックナーが、ウィーンフィルを指揮した時のこと。なかなか棒を下ろさない彼に、コンサートマスターが
「先生、どうぞ始めて下さい」
ブルックナーは、それに対し
「いえいえ、皆さんがお先にどうぞ」
てな話があったらしい。
ブルックナーブロック・・・「ブルックナー休止」と関連する。ブラームス、ベートーヴェンの音楽のように、全体が一つの大きな流れを形作るのでなく、休止で遮られた前後で関連性のない音楽のブロックが浮き沈みする、彼独特の話法。金管群の壮大なコラールの後、突然「休止」・・・・そして静寂の後、弦楽器がひそやかにピチカート(弦を指ではじく)を始めたり・・・「難解な作曲家」としてヤリ玉に上げられる理由のひとつが、これのせいである。
※出典http://www.yung.jp/index.php
初演というのは怖いもので、数多のスキャンダルのエピソードに彩られている。その中でも、このブルックナーの3番の初演は、失敗と言うよりは悲惨を通り越した哀れなものだった。
ブルックナーはこの作品をワーグナーに献呈し、献呈されたワーグナーもこの作品を高く評価したため、ウィーンフィルに初演の話を持ち込んだ。そして、友人のヘルベックの指揮で練習が始められたが、僅か1回で「演奏不可能」として、その話は流れてしまった。しかし指揮者のヘルベックはあきらめず、ワーグナー自身も第2楽章のワーグナー作品の引用などを大幅にカットすることによって作品を凝縮させることで、再び初演に向けた動きが現実化し始める。
ところが、そんな矢先にヘルベックがこの世を去ってしまった。そこで仕方なく、ブルックナー自身の指揮で初演を行うことになってしまった。ブルックナーの指揮は、お世辞にも上手いといえるようなものではなく、プロの指揮者のもとで演奏することになれていたウィーンフィルにとっては、まさに「笑いもの」といえるような指揮ぶりだった。そんな状態で初演の本番を迎えたから演奏は惨憺たるもので、聴衆は一つの楽章が終わるごとに呆れ果てて席を立っていき、最終楽章が終わった時に客席に残っていたのは、僅か25人だったと伝えられる。
その25人の大部分も、その様な酷い音楽を聴かせたブルックナーへの抗議の意志を伝えるために残っていたのだ。ウィーンフィルのメンバーも演奏が終わると全員が一斉に席を立ち、一人残されたブルックナーに嘲笑が浴びせかけた。ところが地獄の鬼でさえ涙しそうなその様な場面で、僅か数名の若者が熱烈にブルックナーを支持するための拍手を送った。その中に、当時17才だったボヘミヤ出身のユダヤ人音楽家がいた。彼の名は、グスタフ・マーラーと言った。
ブルックナー事典(5)
「ブルックナー・ゼクエンツ」・・・ひとつの音型を繰り返しながら、音楽を盛り下げていく手法。セグエンツ(zequent)とは、モチーフがひとつの声部、あるいは複数の声部に続けて繰り返し示される事を言い、ブルックナーの音楽で随所で見られる。楽想が盛り上がって頂点に達してゆくところで、同じフレーズをどんどん繰り返してしまうという、荒削りながらも圧倒的なパワーで聴衆を威圧するブルックナーの真骨頂である。ショスタコーヴィッチも、これと似た手法をは用いて劇的な効果を発揮している。
1872年に着手し、1873年に初稿(第1稿または1873年稿)が完成した。
初稿執筆の最中の1873年、ブルックナーはワーグナーに面会し、この第3交響曲の初稿(終楽章が未完成の状態の草稿)と、前作交響曲第2番の両方の総譜を見せ、どちらかを献呈したいと申し出た。ワーグナーは第3交響曲の方に興味を示し、献呈を受け容れた。この初稿により1875年、ヘルベック指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演が計画されたが、リハーサルでオーケストラが「演奏不可能」と判断し、初演は見送られた。1876年(交響曲第5番作曲の時期)、ブルックナーはこの曲の大幅改訂を試み、1877年に完成した(第2稿、または1877年稿)
音楽評論家の吉田秀和氏が、50年代に初めてヨーロッパを訪れた時のことについて
「今のヨーロッパで聴くべきものは何か」と尋ねると、その人は
「まず何はおいても、クナッパーツブッシュのワーグナーとブルックナーは聴くべきだ」
と答えた。そこで、早速にクナが振るブルックナーを聞いてみると、これがまたえらく単純な音楽が延々と続く。とりわけスケルツォ楽章では、単調極まる三拍子の音楽が延々と続くため、さすがに呆れて居眠りをしてしまった。ところが再び深い眠りから覚めても、まだ同じスケルツォ楽章が演奏されていたので、すっかり恐れ入ってしまったという。そして、その事をくだんの人に正直に打ち明けると、その人は
「日本人にはベートーヴェンやブラームスが精一杯で、ブルックナーはまだ無理だろう」
と言われた。
50年という時の流れを感じさせる話だが、ことほど左様にブルックナーの音楽を日本人が受容するというのは難しいことだった。いや歴史を振り返ってみれば、ヨーロッパの人間だってブルックナーを受容するのは難しかったのだ。
ブルックナー事典(4)
オルガンの響きのように「力強く抉る」とも表現される、オーケストラ全体による重厚な「ブルックナー・ユニゾン」(ユニゾン(unison)とは音楽で同じ高さの音、また、そのような音や旋律を複数の声や楽器で奏する事を指す)
全ての楽器が、フォルティシモで同じ旋律(音)を奏するブルックナー得意の力技。まさにホール一杯に響く、パイプオルガンの壮大な迫力が堪能できる。誰にでも書けそうな手法だが、何と言っても最初にやったヤツが一番偉い。音楽史上最大のコロンブスの卵と言える。オルガン的な発想こそ、代表的なブルックナーらしさである。
10歳の頃から教会でオルガンを弾き、オルガニストとして音楽の世界へ入ってきた事が、大きく影響したのだろう。この手法はオルゲンプンクト(持続低音)を多用し、土台となる低音部を支え主題はユニゾンで提示したり、さらにユニゾンで音型を反復しながら、クライマックスを作ってゆくところなどに現れる。