2006/09/09

浜離宮恩賜庭園(3)

浜殿から浜離宮

浜殿はこの頃、敷地が二分されていた。延遼館のある外務省所管の敷地と庭の海軍省用地だったが、明治3年(1868年)1023日、庭が宮内省の管理となり「浜離宮」と称されることになった。明治7年(1872年)128日、延遼館を外務省所管とし、敷地21,765坪を宮内省所管とした。明治10年(1875年)に外務省本庁舎が焼失したため、霞ヶ関に再建されるまで仮庁舎を延遼館に移した。明治17年(1882年)411日、浜離宮の敷地と建物の全てを皇室所有となった。

 

外国貴賓の来朝

明治12年(1877年)以降、外国貴賓の来朝が増加し、延遼館が大いに役立たれた。主な来朝者は、下記の様である。

 

明治125 - ドイツ皇族ハインリッヒ殿下

同年78 - 米国前大統領グラント将軍

同年11 - イタリア皇族ジュク・ド・ゼーン殿下

明治14年(1879年)3 - ハワイ皇帝

同年10 - 英国皇孫殿下

明治17年(1882年)8 - スエーデン皇子オスカル殿下

明治20年(1885年)3 - 独国フレデリック・レオポルド殿下

同年6 - 露国アレキサンドル・ミハイロウィッチ殿下

明治21年(1886年)7 - オーストリー国レオポルド・フェルジナント親王>

 

明治12年(1877年)67日、第18代大統領グラント将軍は、世界周遊の旅の帰途にリッチモンド号で長崎に入港、73日横浜に上陸し、特別列車で新橋駅に着いた。当時は汐留貨物駅構内で、岩倉具視、伊藤博文、西郷従道、井上馨がお供をし、儀仗兵を従えて将軍の馬車は延遼館に到着したのである。

 

74日、グラント将軍は赤坂仮皇居の明治天皇を訪問、その返礼として810日明治天皇は浜離宮に行幸され、中島の茶屋で2時間グラント将軍と意見を交わした。グラント将軍は2カ月間延遼館に宿泊した上、シティ・オブ・トウケイ号で帰国した。810日の夜会では、伏見宮、有栖川宮、北白川宮から貴賓、文官、武官など800人が参会、以降、浜離宮は皇室の離宮として園遊会が行われる所となった。

 

明治16年(1881年)今まで吹上御苑で催されてきた観桜会が開かれた。大正5年(1916年)まで続けられ、大正6年(1917年)からは新宿御苑に移った。

 

浜離宮の危機

大正13年(1924年)3月頃、突然、「浜離宮と芝離宮が鉄道施設や魚市場」になるとの噂が持ち上がった。両庭園の歴史的、文化的な価値からとして識者の間から存続すべしとの議論が噴出し、庭園として保存すべしとの声が大勢であった。527日、朝日新聞の記事に「両離宮遂に払下げ、魚市場に内定」の見出し、各新聞が一斉に論陣をはった。68日、庭園協会代表・本多静六、関谷宮内次官、小原内匠頭が会見し、宮内省は将来においても払下げの意思がないと発表した。

 

大正12年(1923年)91日、浜離宮が関東大震災で大きく揺すぶられた。庭の各所から火災が発生し、大手門の渡り櫓、大手門橋、汐見茶屋が焼失、大泉水の縁石積みが崩れた。翌13年から被害の復旧が始まり、旧大手門橋に変え現在の南川橋を架けた。幸いにも、園景の中心となる中島の茶屋始め多くの亭宇が災害から免れた。

 

昭和19年(1944年)1129日、浜離宮にサイレが鳴り響き、上空をB29が編隊で通過した。太平洋戦争突入である。園内には防空壕が造られ、高射砲が備えられたが、一帯は火の海となり、浜離宮は日に包まれ、中島の茶屋、鷹の茶屋、松の茶屋、燕の茶屋が焔を上げ、樹木も焼け焦げ、焼け残った物は殆どなかった。歴史的建物は全て焼失し、稲荷だけが残り、宮内省官舎だった現在の芳梅亭だけが生き残った。

 

都立庭園に再生

昭和20年(1945年)815日正午、敗戦がラジオを通じて告げられ、その3ヶ月後の113日、浜離宮は東京都に下賜された。市民のための公園にと、大正13年(1924年)頃から払下げの議論があり、芝離宮が同様の議論の上、大正131月に下賜され、皇室財産の凍結が予想されたことなどが影響した。東京都は時期的にも資材不足ではあったが、昭和21年(1946年)41日に都民の公園に踏み切り開園された。

 

終戦後の東京は、一面焼野原で土蔵やビルが残骸として目立ち、焼け焦げた幹だけの木が立っている、だが、浜離宮は緑が溢れるように残っている所だった。41日から5月末までは入園料は無料だが、そのかわり入園者は氏名を記帳した、4月は入園者は21,134名、5月は入園者10,432名であった。6月からは有料とし、普通20銭、団体では110銭、6月の入園者7,338名、初年度の総入園者数は79,489名だった。

 

昭和22年(1947年)516日、連合軍最高司令部より政府に覚書が提出された。浜離宮での無期限軍事演習を同年519日から開始するとの内容だった。園内を演習でトラックやジープで乗り廻し、米兵が街の女性たちを連れて来る、園内はこうした女性の溜まり場となった。園内の修復も進められた。失業対策事業として園内の仕事を行い、「ニコヨンさん」「失対さん」の功績は大きかった。

 

園内の設備改修も始められた。昭和23年(1948年)410日に庭球場5面を新設、昭和24年(1949年)416日に集会場(竹梅亭)を改修し使用開始した。しかし、庭園の運営においては暗中模索の状態だった。

 

昭和24年(1949年)頃、都立会館、カモ場、国際ホテル、遊園地などの案が提出されたが実らなかった。昭和25年(1950年)1013日には大泉水で貸ボートを始めた。園景にそぐわないと翌年中止され、納涼大会、ほたる狩り、花火コンクールなど初めたが直ぐ中止となった。だが現在も続いているのが昭和28年(1953年)4月に始めた水上バスである。浜離宮の歩んできた歴史と一致するのかもしれない。

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