浜離宮恩賜庭園は、東京都中央区浜離宮庭園にある都立庭園である。旧浜離宮庭園として特別史跡・特別名勝に指定されている。
概要
東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭。
園内には鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑やボタン園などがある。2000年代前半に西側の旧汐留貨物ターミナルが再開発されて汐留高層ビル群が林立し、庭園とコントラストを成している。
江戸時代に甲府藩下屋敷の庭園として造成され、徳川将軍家の別邸浜御殿や、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開放された。近年、かつて園内にあった複数の建築物の再建が進められており、4棟のお茶屋などが復元されている。
歴史
天正18年(1590年)、徳川家康が関東の領主として江戸入城の頃は、城の東方の平地は至る所は芦原で、武士の屋敷や町人の家として割り付ける土地は10町も無かった。また、城の西南の台地は一面の葦で、武蔵野に繋がっており低地には沼や池が多く存在したため、城下の発展には埋立が必要な状態だった。この頃の海岸線は、現在の田町駅から日比谷辺の括れた入江を通り新橋駅に至るものだった。
慶長8年(1603年)家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府が開かれ江戸の町の発展に備えるため埋立が始まった。家康、秀忠、家光の三代にわたり埋立てが行われ、東京までの歴史は埋立の歴史だった。神田山(現駿河台南部)を切り崩しその土で城の東方と南方の海洲を、諸大名に石高千石当たり人夫一人を動員して埋め立てた。現浜離宮一帯は当時「芝」と呼ばれ、江戸城周辺の下町が整えられた後、この周辺の埋めてが行われた。最も早かったのが東海道で、それに沿って町屋ができ海に接していた。その結果、浜町、八丁堀、日本橋、京橋、銀座の町が誕生し、日本橋川を中心とする江戸内港が整えられ、日本橋や京橋が架けられた。
埋立てて邸地に
寛永年間(1624〜1644年)に描かれた『豊嶋郡江戸庄図』には、海は後退し葦の群生とその隙間に水面が、すでに陸地化しつつあった。当時この辺りは将軍家の鷹狩の場所で、参勤交代の大大名を家康や秀忠が招いていたところである。明暦3年(1657年)の『新添江戸図』では、御鷹場は亡くなり町家と海の間に伊達家と保科家下屋敷が登場した。下屋敷と海の間には、埋立中と見かける土地が張り出しており、四代将軍家綱が幕府方針に沿って、海に向かって進出していたようである。江戸城周辺は商業地として造られ、海岸線は海岸防備のための軍事的な考慮から、新藩や有力大名の邸地を海岸に面して与えた。明暦の大火(1657年)によって、江戸の都市計画を新たに作成するときも、この海岸防備の方針は変わらなかった。
徳川綱重に賜邸
賜邸の時期には諸説があるが、通説では『御府内備考』の承応3年(1654年)8月が妥当とされている。また『厳有院実紀』には「海涯水上15,000坪を給わり別墅の地とせらる」と記録されている。これらから、三代将軍徳川家光の三男綱重が与えられた土地は、陸地ではなく海を埋立てた土地が与えられたのである。
慶安4年(1651年)綱重8歳の時に所領15万石を与えられ、寛文元年(1661年)甲斐国10万石を加増され25万石の大名となり「甲府殿」あるいは「甲府宰相殿」と称された。現日比谷公園に上屋敷があったため、賜邸された埋立て邸地は「甲府殿浜屋敷」あるいは「海手屋敷」と呼ばれていた。明暦2年(1658年)の『江戸図鑑綱目』によると、甲府中納言の邸地の南側に埋立てた空き地があり、海に向かって広がっていることが分かる。綱重の邸地は寛文4年(1664年)29,535坪を増給され、44,555坪の広さになった。その後も敷地は拡げられ、延宝年間(1673〜1681年)に現在の地形と面積となった。
徳川綱豊の浜屋敷
寛文9年(1669年)11月29日の『甲府日記』に、「浜殿御作事奉行仕候付御ほうび被下覚、銀五枚友町武兵衛、同三枚玄斎、是ハ御築山泉水同所にて奉行仕付被下也」と記録されている。この記録から友町と玄斎の二人が作庭の工事責任者であり、庭がこの頃に造られたこと、屋敷はその以前に既に出来ていたことを表している。玄斎は庭造りの名人で、現在は無いが幕末頃まで存在した汐入の大泉水の南端に「玄斎島」という島があり、干満で島が没したり現わしたりした工夫がされていた。整えられた庭は綱重が甲府宰相になり、その後綱重が没し子綱豊が継いでの43年間、宝永元年(1704年)まで浜屋敷として続いた。
徳川将軍家浜御殿
5代将軍綱吉には子供がいなかった、綱吉は宝永元年(1704年)12月5日、甲府宰相の綱豊を将軍の世子にと江戸城に迎えた。綱豊は家宣と名を改め、父綱重が果たせなかった将軍への道を約束された。甲府浜屋敷は「西之丸御用屋敷」と呼ばれ、その後「浜御殿」と呼ばれるようになった。これより160年間、明治維新まで徳川将軍家の庭として歴史を刻むことになる。
綱吉は将軍家の別邸の庭として満足できなかったのか、宝永4年(1707年)浜御殿の大改造を行い、中島の茶屋、海手茶屋、清水の茶屋、観音堂、庚申堂、大手門橋などが造られた。浜御殿は一新し、浜御殿預りを置き(後に浜御殿奉行に改称)、宝永5年(1708年)6月15日、奉行に本居伊兵衛が任命された。奉行には役宅が与えられ、現在の新銭座鴨場の北にある広場北側に設けられていた。
徳川家宣の時代
家宣は宝永6年(1709年)に6代将軍となったが在職は僅か4年だったが、江戸城内吹上の庭を修治し、浜御殿の庭にも手を加えた。同年9月5日、家宣のお成りを祝い観覧式が行われた、飾り立てた船を浜御殿に繋留し、家宣の命令で舟は一斉に漕ぎ出した。公家たちは中島の茶屋に集まり、大泉水を眺めながら和歌を詠み、大泉水に船を浮かべて船上で演奏をした。
家宣は正徳2年(1712年)10月14日、50歳で没したため、年齢わずか5歳の子家継が翌3年4月に将軍となったが、その3年後に8歳で没した。正徳6年(1716年)元旦、大名小路からの火災で木挽町まで延焼したが、浜御殿は大名火消しが駆け付け消し止めた。同年4月に吉宗が紀州徳川家から将軍として江戸城に入った。吉宗は御三家の一つ紀州徳川家に生まれ、四男だったため越前の国、丹羽郡鯖江で3万石を与えられていたが、兄達が早く没したため紀州徳川家を継いだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿