※出典http://www.yung.jp/index.php
初演というのは怖いもので、数多のスキャンダルのエピソードに彩られている。その中でも、このブルックナーの3番の初演は、失敗と言うよりは悲惨を通り越した哀れなものだった。
ブルックナーはこの作品をワーグナーに献呈し、献呈されたワーグナーもこの作品を高く評価したため、ウィーンフィルに初演の話を持ち込んだ。そして、友人のヘルベックの指揮で練習が始められたが、僅か1回で「演奏不可能」として、その話は流れてしまった。しかし指揮者のヘルベックはあきらめず、ワーグナー自身も第2楽章のワーグナー作品の引用などを大幅にカットすることによって作品を凝縮させることで、再び初演に向けた動きが現実化し始める。
ところが、そんな矢先にヘルベックがこの世を去ってしまった。そこで仕方なく、ブルックナー自身の指揮で初演を行うことになってしまった。ブルックナーの指揮は、お世辞にも上手いといえるようなものではなく、プロの指揮者のもとで演奏することになれていたウィーンフィルにとっては、まさに「笑いもの」といえるような指揮ぶりだった。そんな状態で初演の本番を迎えたから演奏は惨憺たるもので、聴衆は一つの楽章が終わるごとに呆れ果てて席を立っていき、最終楽章が終わった時に客席に残っていたのは、僅か25人だったと伝えられる。
その25人の大部分も、その様な酷い音楽を聴かせたブルックナーへの抗議の意志を伝えるために残っていたのだ。ウィーンフィルのメンバーも演奏が終わると全員が一斉に席を立ち、一人残されたブルックナーに嘲笑が浴びせかけた。ところが地獄の鬼でさえ涙しそうなその様な場面で、僅か数名の若者が熱烈にブルックナーを支持するための拍手を送った。その中に、当時17才だったボヘミヤ出身のユダヤ人音楽家がいた。彼の名は、グスタフ・マーラーと言った。
ブルックナー事典(5)
「ブルックナー・ゼクエンツ」・・・ひとつの音型を繰り返しながら、音楽を盛り下げていく手法。セグエンツ(zequent)とは、モチーフがひとつの声部、あるいは複数の声部に続けて繰り返し示される事を言い、ブルックナーの音楽で随所で見られる。楽想が盛り上がって頂点に達してゆくところで、同じフレーズをどんどん繰り返してしまうという、荒削りながらも圧倒的なパワーで聴衆を威圧するブルックナーの真骨頂である。ショスタコーヴィッチも、これと似た手法をは用いて劇的な効果を発揮している。
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