2006/09/08

浜離宮恩賜庭園(2)

徳川吉宗の時代

8代徳川吉宗を待っていたのは享保元年(1716年)99日〜同6年(1721年)の「享保の改革」、幕府財政の建て直しだった。浜御殿も影響を受け、勤務していた者の大人員整理がされるなど、大幅な改革が実行された。浜御殿の経営は実用性を重視したものに変わり、享保9年(1724年)の大火で浜御殿が類焼したときも復興はほどほどに、泉水の水質悪化を防止する工事を行っている。茶屋を建てない代わり、織殿を建て、製糖所、製塩所、鍛冶子小屋、火術所、大砲場、薬草園などを作った。

 

享保12年(1727年)、吉宗は砂糖黍の種を薩摩から取り寄せ蒔き、何回も失敗したが享保14年(1729年)黒砂糖の精製に成功した。薬園には各地で採集したり、中国から輸入した400種の薬草が栽培され、鍛冶小屋で新刀を鍛えたり、狼煙を考案したりした。鎖国中にもかかわらず、オランダ人のゲーゼルを浜御殿に招き馬場で西洋騎馬術を上覧している。

 

享保13年(1728年)613日、象が長崎に着いた、ベトナムの広南を出港した唐船での雄と雌の2頭の象で、吉宗が2年前に注文していたのである。長崎で雌象が死に、雄象だけが江戸に運ばれたが、京都で中御門上皇、霊元天皇の上覧に供するため、雄象は五位以上の位が必要になり従四位という高い位を与えられた。

 

享保14年(1729年)525日、象は浜御殿に入り、27日に桜田門から江戸城に入り、大広間車寄せで吉宗に会った。9代徳川家重の時代は浜御殿は、庭の清掃が日課程度で、たまに泉水の浚渫を行うことだった。10代将軍徳川家治は在職26年で浜御殿を訪れたのが25回と極めて少なく、唯一の出来事に新銭座の鴨場が造られたことである。

 

徳川家斉の時代

天明7年(1787年)〜天保8年(1837年)の11代徳川家斉の50年間は、浜御殿が最も整備された時代であり、最も催し事があった時代であった。家斉によって燕の茶屋、松の茶屋、藁葺の茶屋、御亭山腰掛、松原の腰掛、五番堀腰掛、浜の藁屋、新銭座東屋などが造られた。

 

寛政2年(1790年)頃〜寛政11年(1799年)頃、庭の修治が頻繁に行われた。同3年(1791年)庚申堂鴨場と泉水を埋立て土手を造り、同8年(1796年)御伝橋上に藤棚を造り、同10年(1798年)観音堂、庚申堂の修理などである。家斉の在職20年間に、浜御殿に90回以上も訪れている、大田南畝の『半日閑話』によれば、寛政7年(1795年)家斉は、田安門から徒歩で六番町、市ヶ谷見付門、佐内坂八幡、四谷堀端、紀州家表門から浜御殿に入った記録がある。家斉により園景が整えられた寛政12年(1800年)頃から、家斉の訪れる回数は益々増加したが、最も集中したのが鴨場での放鷹だった。

 

鴨場

池には鴨が休む小島を造り、池の周囲を土手で囲み、長さ30メート程の引堀を幾つか造る、引堀の端に小覗(木戸)と餌蒔きの穴を開け、引堀両側に人が隠れる土塁を造る。文化2年(1805年)925日に鴨猟が行われ、家斉は午前6時頃江戸城を出て浜御殿に、引堀脇に待機した。家鴨に誘われた鴨が引堀に十分に入ったことを確認してから、引堀入口に沈めてあった網を引き起こすと、鴨は驚いて逃げようとするが池に戻れない。家斉の拳から放たれた小さな鈴を付けた鷹が鴨に襲い掛かり落とす、鷹匠が鴨を押さえ、鷹に鴨の心臓を褒美として与える。この日は獲物が多かった、御拳(将軍の獲物)と脇(お供の獲物)は下記のようである。

 

御拳 - 真鴨11羽、小鴨2羽、尾長鴨3羽、大鷺1羽、小鷺1

- 岡村備後守 真鴨1羽、中野播磨守 真鴨2羽、尾長鴨2

射留 - 真鴨1羽 御小姓組、水野石見守組、鈴木鉄蔵、雑鴨1羽 御書院番、津田山城守組、落合式部

 

幕末の浜御殿

12代家慶に時代は、国の内外の情勢から軍事的な状況に変わっていき、庭園も最小限の手入れに終始した。嘉永6年(1853年)63日、米国艦隊を率いてマシュー・ペリーが浦賀に入港し、江戸は大混乱に陥った。幕府は各藩に出兵を命じ沿岸の警備に当たらせ、浜御殿は高松藩と鉄砲方で固め、同年612日ペリーは退去した。家慶が没し、第13代家定が将軍となり、嘉永7年(1854年)校武所(後の講武所)が越中島に設けられ、神奈川条約が結ばれた。

 

安政3年(1856年)10月、アメリカ初代領事ハリスが下田に上陸し、益々政情が緊迫状態になった。安政5年(1859年)第14代家茂が将軍となり、文久元年(1860年)浜御殿の東南隅に砲台屯所が設けられた。家茂の在職9年の間、攘夷と開国、財政悪化など休息の場は無かった、慶応2年(1866年)96日、家茂の棺を乗せた船が浜御殿のお上がり場から上陸した。

 

慶応2年(1866年)浜御殿は海軍所となり、御殿奉行を廃止し海軍奉行となり、翌3年(1867年 )1117日、浜御殿の名称が取止めとなった。慶応2125日、慶喜は将軍宣下を受けたが、翌年1024日、将軍を辞してしまった。浜御殿は7代将軍家宜や11代将軍家斉には華やかな舞台だったが、最後の将軍慶喜は江戸城と浜御殿には一度も入ることはなかった。

 

明治の浜離宮

慶応4年(1868年)411日、幕府が瓦解、江戸城は無血開城、同年717日に江戸が東京に名前を変え、827日に明治天皇が即位式を挙げ、98日に年号を明治と改元した。桑茶政策により庭園が桑畑や茶畑に変わり、明治元年(1868年)1117日に浜殿も東京府の管理となり軍事的利用から貴賓接待場と変わっていった。東京府が引き継いだ建物は大手門と見張番所の他、中島の茶屋、海手茶屋、燕の茶屋、松の茶屋、観音堂、庚申堂、馬見所、海軍所建物、大番所、表役所、外仮番所、大蔵(4棟)、稲荷社(2棟)、納屋(2棟)、船見番所、仮稽古場、小使部屋の計25カ所である。

 

明治元年(1866年)12月、米国領事から庭を見たいと、他の外国からも同様の問い合わせが来た。政府は旧幕府から引き継いだ国米、英、露、仏、オランダ、ベルギー、イタリア、デンマークと仮条約を結び、北ドイツ連邦、オーストラリアとも条約交渉中で、外交官との折衝の場所にと浜殿を決めていた。

 

明治2年(1867年)6月、英国第二王子のデューク・オブ・エジンバラが来朝に合わせ、中島の茶屋、燕の茶屋、鷹の茶屋、汐見の茶屋、お伝い橋、馬見所、水門、お上り場、外構などの改造が行われた。また処分する施設、奥向休憩所、膳所、観音堂、庚申堂、漬家、元船蔵、仮建物、稲荷社などが入札にかけられた。同年510日、外国貴賓用の施設として突貫工事で進められていた「延遼館」が完成、日本で最初の西欧式の石造建築で、殆どの構造は木造で、壁を凝灰岩を積んで屋根は瓦葺であった。

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