その後、カールスルーエ、ミュンヘンなどドイツ各地を転々とする。
1813年、プラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力する。
モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させた。
1817年、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)に移る。当時、宮廷ではイタリア・オペラが主流であったが、ヴェーバーは自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑む。結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功する。また当時、最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行った。
1821年、ベルリンで『魔弾の射手』が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てた。この『魔弾の射手』を観て、ヴァーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われている。この頃からヴェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などに、その兆候が現れ始める。
1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』を作曲する。この時、彼は結核を患っていたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していた)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。
しかし、その後病状が悪化し、同年の6月5日にロンドンで客死した時は僅か39歳であった。その遺骨は、18年のちの1844年、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったヴァーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらロンドンからドレスデンに帰還した。
『魔弾の射手』は、ヴルフ・コーノルト『ドイツオペラの知識』(シンフォニア刊、1999年)でドイツでの上演人気30傑に挙げられているが、ドイツオペラの全曲レコードを精力的に残したベーム、カラヤン、ショルティの3人は、このオペラのスタジオ録音を残していない。ドイツ圏の外での上演はさらに少なく、歴史的名声の高さに比してやや寂しい状況にある。
ピアノ協奏曲第2番 変ホ長調は、カール・マリア・フォン・ウェーバーが1811年から1812年にかけて作曲したピアノ協奏曲である。
まず第3楽章だけが11月7日にミュンヘンで完成し、第1楽章は翌年10月19日、第2楽章が12月12日にそれぞれゴータで完成された(作曲期間が延びたのは、作曲者が求職の旅に出ていた最中だったため)。
初演は1812年12月17日に行われた。
全楽章の調性や曲想から、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番を参考にしたと考えられる(ただし第1楽章は第1番同様、古典的な協奏ソナタ形式をとる)。
なお両端楽章のカデンツァは、第1番同様作り付けとなっており「カデンツァ」の表記すらない。
第2楽章と終楽章は続けて演奏される。
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