2017/06/19

弥生時代(2)



●定義の変遷
弥生式土器が発見された当初、弥生式土器は縄文式土器の一様式とされていた。

しかし19367(昭和1112)、奈良県唐古遺跡で行われた発掘調査で弥生式土器と共に農耕具が発見されたことから、弥生式土器の時代にはすでに農耕が行われていたことが明らかになり、19701980年代には弥生時代が水稲農耕を主体とする時代であることは定説になっていた。

その後、さらに研究が進展し、弥生時代の意義は稲作の始まりにあるのではなく、稲作を踏まえて古代国家形成への途が深められていることが重要とする見解が示されるようになり、水稲農耕を主とした生活によって社会的・政治的変化が起きた文化・時代を弥生文化、弥生時代とする認識が生まれていった。

この新たな弥生時代の定義によれば、西日本の弥生文化こそが典型的な弥生文化であり、東日本のものはそれとは大幅に異なる別文化であるとする見解が示される様になった。

この弥生併行期の東日本の文化については「縄文系弥生文化」、「(エピ)縄文」、「東日本型弥生文化」など、研究者によって様々な呼称が与えられており、定まった名称はない。

この新たな定義については、自らの研究領域が弥生時代の定義から外れる事になる、東日本の研究者からの強い反発がある。

●弥生文化の発生と展開
縄文時代後期、西日本では生業の一部として既に農耕が行われていたが、水田農耕の本格的な開始は紀元前109世紀の九州北部が最初とされる。

紀元前9世紀の板付遺跡の環壕集落では、既に集落内に階層差が存在したことが確認されている。

北部九州に弥生文化が発生して約250年後、弥生文化は西日本各地に伝播し始め、紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾地域にまで拡散したが、弥生文化の拡散は濃尾平野、伊勢湾地域で一旦止まってしまう。

東日本には紀元前3世紀、関東地方西部に初めて弥生文化が定着したことが、小田原市の中里遺跡の発掘によって確認されている。

中里遺跡には、集落の設計や農耕技術の隅々にまで近畿・東海の影響が指摘されており、近畿・東海地方からの入植によって弥生文化の扶植が図られたことが明らかになっている。

その後、紀元前2世紀には関東地方西部一円に弥生文化が拡散した。

これより遡って、紀元前4世紀の津軽・砂沢遺跡、紀元前3世紀の垂柳遺跡で水田稲作の痕跡が確認されているが、水田農耕によって社会変化が起きた痕跡は確認されておらず、弥生文化には含まれない。

弥生文化/弥生時代は関東地方西部を東限とし、新潟県から千葉県を結ぶラインより西側にのみ存在したとされている。

●政治
弥生時代は、縄文時代とはうって変わって、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。

武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。

また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であると考えられてきた。

●受傷人骨
弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から、十五本の石鏃が出土した例がある。

多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。

かつては、戦闘の際に矢を何本も射込まれ、やっと倒れた人物と解釈されることが多く「英雄」などとも呼ばれたが、近年では矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、刑罰として処刑されたとか、何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生贄)となって、胸に矢を射込まれたなどといった解釈もある。

平和的な解釈としては、埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納したと考える者もいる。

北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。

こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れ、体内に残ったものと解釈される。

しかし武器の先端を折り取り、副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないか、といった反論をする者もいる。

佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多い事を示すと考えられる。

甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている。

戦争やテロの時に敵の首を取る慣習は、戦国時代や幕末でも続いていたが、その始まりは弥生時代にあった。

このような例が、本当に戦闘の犠牲者なのかは論証されておらず、何らかの儀礼的行為によるものと主張する者もいるが、未だ論証されていない。

受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠である。

例えば額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっている。

右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、戦闘による受傷者である可能性は極めて高い。

また人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。

このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦争が頻繁に起こったであろう事は確実といわれている。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められる事が特徴的である。

弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に、可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。

この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。

なお中期後半以降は、受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。
※Wikipedia引用

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