現在の所在
熱田神宮
草薙剣は、神話の記述の通りであれば熱田神宮の奥深くに神体として安置されている。
この剣は盗難にあったことがあり、天智天皇7年(668年)に新羅の僧・道行が熱田神宮の神剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした。しかし船が難破して失敗し、その後は宮中で保管されていた(草薙剣盗難事件も参照)。朱鳥元年(688年)6月に天武天皇が病に倒れると、占いにより、これがいつまでも宮中に神剣を置いたままにし、熱田に戻さない為、神剣の祟りだということで、陰陽師により御祓をするが、それでも神剣の祟りが解けなかったので熱田神宮に戻されたと言う。
江戸時代に熱田神宮の改修工事があった時、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4、5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英の「玉籤集」の裏書に記した記載よれば、櫃を開けると赤土が入っており、その真ん中に布に包まれた剣があり布をほどいて剣を見ると、長さは2尺8寸(およそ85センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。神剣を見た神官は病の祟りで亡くなったとの逸話も伝わっている。
昭和天皇の侍従長であった入江相政の著書[要出典]によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために木曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長・山岡鉄舟の侍従封があり、それを解いたところで明治天皇の勅封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めたという。
皇居
草薙剣の形代は、崇神天皇の時に神器と同居するのは畏多いという理由で作られ、現在は皇居の「剣璽の間」に勾玉とともに安置されているが、かつて水没、偽造、消失と様々な遍歴を辿った。
まず平家滅亡の折に、平時子(二位の尼)が腰に差して入水し、そのまま上がっていない。『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの元暦2年(1185年)3月24日の条で「二位ノ尼は宝剣(草薙剣)を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する」とあり、戦いの後の同年4月11日の条に、戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八坂瓊曲玉)は御座すが、宝剣(草薙剣)は紛失」と記されている。また、安徳天皇の都落ち後に即位した後鳥羽天皇は、その後も宝剣の捜索を命じたが結局発見されず、以前に伊勢神宮の神庫から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣とした。
ついで、一説によると南北朝時代に後醍醐天皇が敵を欺くために偽造品を作らせたことがあったという。また室町時代には、南朝の遺臣らによって勾玉とともに強奪されたことがあったが、なぜか剣だけが翌日に清水寺で発見され回収された。これが現在の皇居の吹上御所の「剣璽の間」に安置されている剣である。
伝承
熱田神宮やその摂末社に伝わる伝承では、ヤマトタケルの妻のミヤズヒメ(宮簀媛)の館は、火上山の館(現在の氷上姉子神社の場所)であるとする。そしてヤマトタケルの死後、ミヤズヒメは尾張の一族と共に住んでいた火上山の館で剣をしばらく奉斎守護していたが、後に剣を祀るために剣を熱田に移し、熱田神宮を建てたという。また道行が剣を盗んだ際、通ったとされる清雪門は「不開門(あかずの門)」と呼ばれ、何百年来く閉ざされたままとされる。これは道行が神剣を盗む時に通った不吉な門とも、二度と皇居に移されない様にするためともいわれる。
さらに持統天皇の時代(698年)には、神剣の妖気を鎮めて日本武尊と宮簀媛の魂を鎮めるため、天皇が神剣を熱田神宮から氷上姉子神社に移そうと計画していたが、4年後に亡くなった為に叶わなかったという。
また、現在の愛知県名古屋市昭和区村雲町の名の由来になったという説がある。そのほか、静岡市清水区草薙は、神話上の同じエピソードに関連するといわれる。
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