2017/06/06

縄文時代(4)


前述のように、縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していた、と考えられている。

●石狩低地以東の北海道
エゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域。
トチノキやクリが分布していない点も、他地域との大きな違いである。
トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。

●北海道西南部および東北北部
石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。
ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。
回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上の哺乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。

●東北南部
動物性の食料としては陸上のニホンジカ、イノシシ、海からはカツオ、マグロ、サメ、イルカを主に利用した。
2者とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。

●関東
照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうち、およそ6割がこの文化圏のものである。
陸上の動物性食料としては、シカとイノシシが中心。
海からはハマグリ、アサリを採取した他、スズキやクロダイも多く食した。
これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘とした網による漁業を行っていた。

●北陸
シカ、イノシシ、ツキノワグマが、主な狩猟対象であった。
植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化した。

●東海・甲信
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリの根なども食用とした。
打製石斧の使用も特徴の一つである。

●北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わる。
漁業面では、切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。

●九州(豊前・豊後を除く)
狩猟対象はシカとイノシシ。
植生は照葉樹林帯。
最大の特徴は、九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。
結合釣り針とは、複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。
九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた

●トカラ列島以南
植生は照葉樹林帯である。

動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用とする。

珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としてはシャコガイやタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。

九州文化圏との交流もあった。

----------------------------------------------------------
これら9つの文化圏の間の関係であるが、縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは「発展の方向を同じくする、別個の地域文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。

つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も、当然ながら見られるのである。

縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち「北海道西南部および東北北部」、「東北南部」、「関東」、「北陸」、「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」、「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。

その結果、縄文後期・晩期には、文化圏の数は4つに減少する。

●勾玉からみる地域交流
遅くとも縄文中期(BC5,000年)頃には、ヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されている。

蛍光X線分析によると、青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが分かっており、このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。

後年には、日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。

●植物栽培
縄文農耕論は明治時代以来の長い研究史があり、農耕存否の論争は現在も続いている。

縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実である、と考えられている。

福井県の鳥浜貝塚の前期の層から、栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウなど)が、早期の層からヒョウタンが検出されている。

一方、北部九州の後・晩期遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている。

福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析、熊本市の遺跡でイネ、オオムギ、大分県遺跡でイネなどが検出されており、東日本からも同じく後・晩期の10個所を超える遺跡から、ソバの花粉が検出されている。

これらも焼畑農耕による栽培であると推定されている。

●稲作の始まり
現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。

イネ(Oryza sativa)には、ジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)などの亜種があり、ジャポニカはさらに温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれる。

温帯ジャポニカは、チャイナの長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。

弥生時代以降の水稲も、温帯ジャポニカであるとされている。

列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。

縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県や鹿児島県の上野原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールは、後期後半の西日本各地の遺跡から発見されている。

熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡の土壌と土器胎土からイネのプラント・オパールが見出され、岡山県総社市の南溝手(みなみみぞて)遺跡で岡山県古代吉備文化財センターが発掘した土器6点の中の4点から、イネのプラント・オパールが見出された。

うち2点は縄文時代後期中頃、およそ3500年前(炭素14年代)に属している。

同センターは、穂を摘み取るのに使われたと推定される石器(穂摘み具)や、打製土掘り具と見られる石器を発見した。

晩期の突帯文土器を伴う、岡山市北区津島の津島江道遺跡は水田遺構として最も古いもので、3メートル×5メートル前後の小区画水田である。

このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。

ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。
※Wikipedia引用

0 件のコメント:

コメントを投稿