2017/06/14

草薙剣(三種の神器)

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、三種の神器の一つ。草薙剣(くさなぎのつるぎ)、草那芸之大刀(くさなぎのたち)の異名である。熱田神宮の神体となっている。三種の神器の中では、天皇の持つ武力の象徴であるとされる。

 

『日本書紀』では「草薙剣」、『古事記』では「草那芸之大刀」「草那芸剣」と表記される。「天叢雲剣」の名称は、日本書紀の注記で、異伝(一書・一云)として二か所のみに記される。熱田神宮では、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)としている。

 

神代

スサノオ(素戔嗚尊)が、出雲国において十拳剣でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。その尾から出てきた剣が草薙剣である。日本書紀の注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気が掛かっていたため、かく名づけたか」とある。スサノオは「これは不思議な剣だ。どうして自分の物にできようか」(紀)と言って、高天原の天照大神(アマテラス)に献上した。剣は天孫降臨の際に、天照大神から三種の神器としてニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡され、再び葦原中国へと降りた。

 

人代

ニニギが所有して以降、皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に、皇女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)により、八咫鏡とともに皇居の外で祀られるようになった。『古語拾遺』によるとこの時、形代の剣(もう一つの草薙剣)が作られ宮中に残された。

 

垂仁天皇の時代、ヤマトヒメ(倭姫命)に引き継がれ、トヨスキイリヒメから、合わせて約60年をかけて現在の伊勢神宮・内宮に落ち着いた(「60年」以降の部分は『倭姫命世記』に見られる記述である。詳細記事:元伊勢)。

 

景行天皇の時代、草薙剣は伊勢国のヤマトヒメから、東国の制圧(東征)へ向かうヤマトタケル(日本武尊)に渡された。相模国(記)・駿河国(紀)で、敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を刈り払い(記のみ)、向い火を点け脱出する。日本書紀の注では「一説には、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたため、その剣を草薙剣と名付けた」とある。

 

東征の後、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメ(宮簀媛)の元に剣を預けたまま、伊吹山の悪神を討伐しに行く。尾張国風土記においては、宮酢媛の屋敷の桑の木にヤマトタケルが剣を掛けたところ、剣が神々しく光輝いて手にする事ができずに残したとされている。しかし山の神によって病を得、大和国へ帰る途中で、最期に「剣の太刀、ああその太刀よ」(記)と草薙剣を呼んで亡くなってしまった。その後、ミヤズヒメは剣を祀るために熱田神宮を建てた。

 

古代

天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された。天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された。

 

近現代

戦災を逃れるため、1945821日から同年919日までの間、飛騨一宮水無神社に遷座した。

 

名の由来

諸説あるが、実際は余り判っていない。都牟刈大刀(つむがりのたち)、都牟羽大刀(つむはのたち)、八重垣剣(やえがきのつるぎ)、沓薙剣(くつなぎのけん)ともいう。『海部氏系図』、『先代旧事本紀』の尾張氏系図、津守氏古系図等に載る「天村雲命」との関係も推測され、また外宮祀官家の渡会氏の祖先にも「天牟羅雲命」の名が見える(『豊受大神宮禰宜補任次第』)。

 

草薙剣

「草を薙いだ剣」

ヤマトタケルが伊勢神宮でこれを拝受し、東征の途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えた。この説は広く知られているが、日本書紀では異伝とされている。現在の静岡県には、焼津、草薙など、この神話に由来する地名が残る。

 

「蛇の剣」

クサは臭、ナギは蛇の意(ウナギ#名称などを参照)で、原義は「蛇の剣」であるという説。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。高崎正秀は『神剣考』「草薙剣考」において、クサ==奇、で霊威ある意とし、ナギ=ナダ=蛇であるとして、この剣の名義を霊妙なる蛇の剣であると説いている。また、その名はヤマタノオロチに生贄にされかけたクシナダヒメ(奇稲田姫)に通じるものであり、本来クシナダヒメはヤマタノオロチに対する祭祀者でありながら同時に出雲を支配する女酋的存在ではなかったかとする。なお、蛇の形状をした剣として蛇行剣がある。

 

八俣遠呂智由来説

『日本書紀』の注記より。ヤマタノオロチの頭上にはいつも雲がかかっていたので「天叢雲剣」と名付けられた。実際、山陰地方は曇り日が多く、安来地方の山奥、奥出雲町にある船通山(鳥髪峯)山頂には天叢雲剣出顕之地の碑があり、毎年728日に船通山記念碑祭・宣揚祭が開催される。また、「天叢雲剣」の名の由来である、「大蛇の上に雲気有り」という表現に関して『史記』や『漢書』からの引用だと説かれることもある。

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