八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は八咫鏡・天叢雲剣と共に三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)の1つ。八坂瓊曲玉とも書く。
大きな勾玉とも、長い緒に繋いだ勾玉ともされる。
昭和天皇の大喪の礼時に八尺瓊勾玉が入った箱を持った従者は「子供の頭くらいの丸い物が入っている様に感じた」と証言している[要出典]。
名称からの推察[編集]
「さか」は通常は「しゃく」(尺)の転訛だが、この場合は上代の長さの単位の咫(あた)のことである[要出典]。8尺は(当時の尺は今より短いため)約180cm、8咫は約140cmである。
この長さは、玉の周とも、尾を含めた長さであるとも、結わえてある緒の長さであるとも言う。また、「八尺」は単に大きい(あるいは長い)という意味であるとも、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もある。
「瓊」は赤色の玉のことであり、これは瑪瑙(メノウ)のことであるともされる。
(現代の瑪瑙細工では、深紅の赤瑪瑙が細工物や勾玉などによく使用され、ありふれた色だが、これは江戸時代に原石を加熱して赤く発色させる技法が発明されてよりの事である。)
位置づけ[編集]
璽と呼ぶこともあり、やはり三種の神器のひとつである剣とあわせて「剣璽」と称される。
「日(陽)」を表す八咫鏡に対して「月(陰)」を表しているのではないかという説がある。
『養老令』の神祇令に
およそ践祚の日、忌部、神璽の鏡剣(かがみたち)を上(たてまつ)れ
との記述があり、事実『日本書紀』には、690年(持統天皇4年)の持統天皇即位を初めとして、忌部氏が「神璽の剣鏡」を奉ったとある。ここで玉に関する言及がないことについては以下のような諸説がある。
「三種の神器」として問題ないとする諸説
ü 玉も神器の1つだったが、身に着ける宝であり、献上される品ではなかった
ü 漢文特有の表現上の問題であって、実際には鏡剣玉の3つを指している
ü 「鏡剣玉」を略して2字で代表させている
ü 「神璽」が玉のことをさしている(『日本書紀』の原文では「神璽剣鏡」であり「神璽・剣・鏡」と3つに読むことが可能である)
ü 「神璽」が神器全体の意と、鏡剣に対して玉をさす意を兼ねている
鏡剣と玉との間に落差や経緯の違いを想定する諸説
ü 玉は神器としての重要性が劣り、宝としては鏡剣より軽いと考えられていた
ü 本来、もともと3種であり天智朝に定められた即位儀礼までは3種であったが、なぜか『飛鳥浄御原令』で鏡剣の2種に改められ、その後またすぐ3種に戻った
ü 三種の神器と称するのは、後世の創作された物語の上でのことにすぎず、神器の真実は鏡剣の「二種の神器」だったとする説
所在[編集]
経緯[編集]
奈良時代には後宮の蔵司が保管したが、平安時代ころからは、剣と共に櫃に入れて天皇の身辺に置かれた。
冷泉天皇は、精神病あるいは発達障害のため奇行が多かったが、勾玉の箱をあけて実物を確認しようとしたこともあった。しかし箱を封じている紐を解くと白い煙が湧き出てきたため、恐れおののき実物の確認を中断した。
壇ノ浦の戦いで二位の尼が安徳天皇を抱き入水したとき、玉・剣と共に(『平家物語』によると「神璽を脇に挟み宝剣を腰に差し」)沈んだ。しかし玉は箱に入っていたため、箱ごと浮かび上がり源氏に回収された。あるいは、一度失われたものの、源頼朝の命を受けた漁師の岩松与三が、網で鏡と玉を引き揚げたとも言う。
現状[編集]
昭和64年の践祚の後、今上天皇の継承した神器として皇居吹上御殿の剣璽の間に、剣(形代)とともに保管されている。三種の神器の中で唯一、皇居に実物がある。
神話での記述[編集]
日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとする。
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