口語訳:このとき、かつて(天石屋戸で)神招寿(かむおき)した八尺勾王と鏡、草薙の剣と思金神・手力男神・天石門別神を添えて、詔して「この鏡は、私の御魂として、私の前に仕えるように、祭祀せよ。また思金神は、もっぱら政治向きのことを判断して奏上せよ」と言った。
○八尺勾璁鏡(やさかのまがたまかがみ)は、石屋戸の段で、玉祖命(たまのやのみこと)に作らせた、眞賢木(まさかき)の上枝に取り付けた玉と、伊斯許理度賣命に作らせた、中枝に取り掛けた八咫鏡を言う。かつてこれらを用いて、天照大御神を招き寄せたので、「かのおきし玉鏡」と言うのである。【それなのに、この勾玉を伊邪那岐大神が天照大御神に授けた御頸の珠とか、あるいは須佐之男命と誓(うけ)いを行ったときの勾玉だとか、大己貴命や事代主神が奉った勾玉であるというのは、みな上記の「おきし」の意味を解せずに、推量だけで言う誤った説である。】
○草那藝劔(くさなぎのつるぎ)は、須佐之男命が八俣遠呂智を切ったとき、その尾から出て、神異だったので、天照大御神に献げた太刀である。鏡と剣の間に「及(また)」という語を置いたのは、上記の「おきし」という語が玉鏡のことだけを言い、剣はそれとは違うものだから、それらを区別したのである。書紀には、「天照大神は天津彦々火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉及(また)八咫鏡、草薙劔の三種の神宝を授け」とある。ところがこの三種を挙げる順序は、「鏡剣玉」、「鏡玉剣」などとあるべきところが、【その理由は次に言う。】この記でも書紀でも「玉鏡剣」であって、書紀では特に「玉及鏡」と、鏡の上に及の字まで書いているのはなぜかと言うと、水垣の朝(崇神天皇)の時代に、鏡と剣はそれぞれ他の所に移して、天皇のそばにあるのは、元のままのものでなく(レプリカを置いた)、玉だけがここで天照大御神の授けたもとのものだったため、それ以降は玉を神器の第一とするようになったのだ。それ以来、玉を第一に挙げる習わしとなって、この記も書紀も、それに基づいて書いたのであり、神代からこの順序だったわけではない。
【それをある説で元来玉が鏡より重要だったかのように説き、師の祝詞考でも「伊邪那岐命が頸の珠を天照大御神に授けて『高天の原を治めよ』と言ったからには、その御頸玉は、大御神が天を治める徴である。そこで、天孫に授けた勾玉は、天の岩戸の前で招祷したとき、その天照大御神の御頸玉になぞらえて作り、ここで天孫が天降って地上の国を治める徴として、天照大御神が授けたのだ。」と言ったのだが、みな合っていない。理由は、石屋戸の段の勾玉を、天照大御神の頸の玉になぞらえて作ったという根拠がない。その段を見直してみると、勾玉はその意味で作ったわけではない。すべて玉は、いにしえには特に尊び愛でて、世の人々が欲するものだったから、御幣として奉っただけである。だが特別重大な用に使うものだから、心を尽くして作ったので、比類なくめでたく美しい玉だったゆえに、大御神がことに愛して非常に大切にしていたのを、ここで御孫の命に賜ったのだ。それ以外の意味はないだろう。だからこの次の文にも、書紀にも、このときの詔では、鏡のことだけを言い、玉のことは何も言っていない。
この玉が御国を治める徴だったら、この玉のことも詔で言わないわけがない。それをかの御頸の玉になぞらえて、天孫が御国を治める徴だと言ったのは、この記でも書紀でも、三種の神宝の第一に挙げてあるため、強いてその意に合わせようとしたからである。たとえ本当に御国を治める徴だったとしても、大御神の御魂とする鏡より貴いということはないだろう。もちろん、その鏡と並べて授けた宝物の一種だから、またおのずから御国を治める徴ともなったのは、自然なことである。この他にも、三種の神器について、様々な付会の説を口うるさく説く人があるが、みないにしえの意ではない。】
天照大御神が授けた時点での重要さを言うと、鏡が第一だったのはもちろんだが、次は剣、第三が玉だったろう。書紀の継体の巻に「大伴金村の大連は、跪いて天子の鏡・劔・璽符を再拝した。」とあり、神祇令に「踐祚(皇位につく)の日には、中臣は天神の壽詞を奏し、忌部は神璽の鏡・劔を奉る」【令義解に「つまり鏡・劔を神璽と称している」と言う。】とあり、大殿祭の祝詞に「高天原爾神留坐須、皇親神魯企神魯美之命以弖、皇御孫之命乎、天津高御座爾坐弖、天津璽乃劔鏡を捧持賜天、言壽宣志久(たかまのはらにかむつまります、すめらがむつかむろぎ・かむろみのみこともちて、すめみまのみことを、あまつたかみくらにませて、あまつしるしのつるぎ・かがみをささげもちたまいて、ことほぎのりたまわしく)云々(この項、氏の下に一の「テ」を「弖」で代用)」【この神祇令や祝詞の文を見ると、継体の巻の「璽符」も、鏡・剣を言ったのだろうか。玉だとしても、鏡・剣の次に書かれている。】
これらは鏡と剣だけを挙げて、玉については言っていない。【師の祝詞考に、「玉は身に着ける宝で、他人が手を触れることはできないので、いにしえから鏡と剣の二つを大きな儀礼の時のしるしとして来た。しかしこの二つの祝詞は、主なる宝として勾玉を挙げるはずなのに、既に大宝の頃の儀式のやり方になって二つだけを言ったもので、やはり上代の文でないことの証拠の一つだ。」と言ったが、これは納得できない。「玉は身に着ける宝で、他人が手を触れることはできない」というのは、普通はそうかも知れないが、踐祚の時には、まだ身に着けてはいない。
上記の神祇令で「踐祚の日」というのは、令義解で「即位のこと」とあるように、いにしえには踐祚=即位だったのだが、後には踐祚と即位が別のことになり、即位の儀式では「忌部が鏡と剣を奉る」ということは出ていない。これは大嘗会にあることだ。だがその本来の形は、初めて皇位に就くときの儀式らしい。後世には踐祚のとき、前帝から新帝のところへ剣璽を渡す儀式がある。その他の儀式でも、内侍が二人、剣と璽を取り持って供奉する。これから見ると、上代でも大宝の頃でも、前帝から新帝に宝物を渡すとき、璽も渡されたのが当然である。それを鏡・剣だけを挙げて、璽を挙げていないのは、本来鏡と剣が重要で、璽の意味はそれに比べてかなり軽いものだからだ。
とすると、ここは水垣の朝以降、璽を第一とした定めに関係なく、神代のもとからの定めによって書いてあるので、逆に古意を表しているだろう。後に剣・璽だけを言って鏡について言わないのは、鏡は内侍所にあって、動かないからだ。】古語拾遺には「即ち八咫鏡また草薙劔の二種の神寶を、皇孫に授け、永く天璽(あまつしるし)とした。【いわゆる神璽の鏡・劔はこれである。】矛と玉は、おのずから従った。」とあるので知るべきである。【この古語拾遺の文は、世に玉を第一と思われているのが古意に背くことを嘆き、ことさら玉を貶めて、鏡、剣の重要さには及ばないことを主張している。「おのずから従った」というのは、鏡と剣のように正しく御璽としてさずけたのではない。矛と玉は、何となくそれに添えて授けたのだ。ここで言う矛は書紀の言う日矛だろうか。あるいは大己貴神が經津主神に与えた廣矛か。定かでない。】これら三種の中では、玉の意義が軽いからである。とは言っても、天皇のもとにあるものでは、この玉のみが今に至るまで天照大御神の授けたもとのままで残っているので、三種の神器の中でも特に貴い宝である。【後世、神璽と言っているのは、この玉のことである。】
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