2017/06/10

弥生時代(1)



弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。

採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。

縄文時代晩期には、すでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており、弥生時代の定義からは外れる。

2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。

当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年も遡るものであった。

当初歴博の新見解について、研究者の間でも賛否両論あった。

しかし、その後研究が進められた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代を遡らせるようになってきている。

弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立

3世紀中頃、古墳時代に移行した。

弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が、発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。

当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「」を省略する呼称が一般的となった。

●概要
紀元前5世紀中頃、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。

初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡(福岡市博多区)、福岡市博多区那珂、糟屋郡粕屋町江辻、糸島市曲り田遺跡、野多目遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。

弥生時代の始まりである。

1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡が青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から、広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。

その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には中央高地の松本盆地、千曲川流域までひろがった。

中部地方の高地に広がるまで200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられる。

水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえる。

水田を作った人々は、弥生土器を作り多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。

集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。

道具は工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。

青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。

また農具や食膳具などとして、木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。

即ち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。

また水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。

大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などを巡って戦いが発生したとされる。

このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果として、やがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた。

一方、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、次いでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)

併合の記載があるまで、以後の記述は九州・四国・本州を指す。

弥生時代後期・終末期の23世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。

また、3世紀は海退期(弥生の小海退)があり、海が退いていき海岸付近の沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった。

●時期区分
弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。

そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であった。

ところが弥生式土器には、米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とは、この点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。

そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。

その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など、様々な指標が提案された。

現在では、おおよそ水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。

従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような、刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。

なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は遅くとも縄文時代後期までには列島に齎されていたことが分かっている。

また水稲農耕の導入についても、北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまで遡る可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向を踏まえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある

また、北部九州以外の地域では(先I - I - V5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀半ば頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。

2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。

これによると、早期の始まりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期の始まりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期の始まりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期の始まりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。
※Wikipedia引用

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