やがてバラモン文化は東方へ広がり、ガンジス河中流地方に伝わる。
その伝播に伴って、異文化との交流から文化の融合が起こった。
また鉄器の使用が普及するにつれて、農業生産が増大し商工業が盛んになり、社会構造にも変動が起こった。
商業都市が、ガンジス川流域に成立した。
ヴェーダの成立基盤となった王国は没落し、代わってマガダなど十六国が商業都市を核として起こった。
ヴェーダ祭式の基盤となっていた半農半牧の社会においては「人間対自然の関係」が関心の焦点となっていたが、多様な人間関係が現れる都市においては、「人間対人間の関係」に関心が移った。
このような問題について、それまでの婆羅門の祭式思想は無力であった。
また、動物の犠牲を必要とする祭式が都市において経済的に困難になり、実行し難くなった。
このため祭式思想に代わる新しい思想、モラルの追究が起こった。
この時代に現れた思想が、その後のインドの思想・宗教を特徴づけた。
●業・輪廻の思想
輪廻(saMsAra サンサーラ)とは、生き物が様々な生存となって生まれ変わることである。
輪廻説はピュータゴラス派など、古代ギリシアにも見られる。
起源については、未だ不明である。
インドでは『チャーンドーギヤ』と『ブリハッドアーラニヤカ』の両ウパニシャッドに現れる、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く輪廻説(五火二道説)が、明確に説かれる最初の例である。
クシャトリヤ階級の王によって説かれるから、輪廻説は婆羅門によるヴェーダの伝統とは異なる思想系統から生まれたものとするのが通説であったが、最近、五火二道説がヴェーダの祭式と深い繋がりがあることが指摘されている。
業(karman)とは行為のことで、行為は行われた後になんらかの効果を及ぼす。
努力なしで、目的は達せられない。
目的が達せられるのは、それに向かう行為があるからだ。
しかし、努力はいつも報われるわけではない。
報われないことがあるのはなぜか。
運のせいか?
業の理論は、それを「前世における行為」のせいだとする。
行為の果報を受けるのは次の生で、この世では努力してもうまくいく場合と行かない場合がある。
その処遇の違いは、前世に何を仕方で決定されているとする。
行為は行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生において効果を発揮する。
だから、よい行為は後に安楽をもたらし、悪い行為は苦しみをもたらす(善因楽果・悪因苦果)という原理は貫かれる。
こうして、業は輪廻の原因とされた。
生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定されるというのである。
これが業による因果応報の思想である。
業・輪廻の思想は、現代インドにおいてもなお支配的な観念で、カースト制度の残存と深く関わっている。
●タパス(苦行)
古来インドを訪れる外国人の目を驚かすものに、苦行がある。
苦行の原語は「tapas」で「熱」を意味する。
『リグ・ヴェーダ』では、宇宙創造にかかわる「熱力」という意味で用いられた。
後に断食に代表される肉体を苦しめる修行によって、この神秘的な熱力が獲得されるとみなされ、そのような行も「tapas」と呼ばれるようになった。
これを得れば超人的な能力が実現できるとして、様々な苦行、難行が行われるようになった。
ブッダの当時には、都市の近郊に苦行者の集まる苦行林が形成されていた。
『ディーガ・ニカーヤ』(長部経典)「ウドゥンバリカー師子吼経」は、多種多様な苦行者の姿を伝えている。
その中には奇異と思われるものも少なくないが、現代インドにおいてもなお、それらに似た苦行者が見られる。
●ヨーガ(禅定)
現在では、ヨーガは健康法として体操の一種のようにみなされているが、本来は精神統一である。
「yoga」という語は「つなぐ」を意味する語根「yuj」から作られている。
この語は古く『リグ・ヴェーダ』では、たとえば祭りに心を「つなぐ」、すなわち「専心する」などというように、積極的な行為を表すものとして用いられた。
しかし、祭式主義に代わる婆羅門思想としてサーンキヤ思想が起こると、そこでは散乱しようとする心や感覚器官を思惟機能が静めて「繋ぎとめる」というように、精神統一の意味で用いられるようになる。
これが、その後の「ヨーガ」の一般的な用法となった。
静座し精神を統一して瞑想することがヨーガである。
断食など肉体を苛む行を伴う時、ヨーガと苦行との区別は曖昧になるが、本質的には苦行と異質なもので、より精神的である。
苦行においては神秘的な力、熱力の獲得あるいは発現が目指されるが、瞑想では真理の直観、悟りを得て、苦しみから解放されること(解脱)が目的とされる。
インドにおける瞑想の起源は非常に古く、インダス文明にあるのではないかと考えられている。
インダス文明の遺物の中に、瞑想を思わせる座像が描かれたものがある。
●バクティ(信愛)
『バガヴァッド・ギーター』において、最も優れた道として説かれるのが「信愛」、すなわち神に対する恋愛感情にも似た熱烈な信仰である。
苦行を行うこと、善行を行うこと、あるいは知を追求し悟りを開くことも重要であるが、最も優れているのは「信愛」で、最高神ヴィシュヌに対し献身的な信仰を捧げて崇拝するなら、誰でも神の恩寵にあずかることができると説く。
この思想は、その後のヒンドゥー教の信仰のあり方に大きな影響を及ぼした。
※ http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch1 引用
※ http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch1 引用
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