2005/12/31

ドビュッシー 管弦楽のための『映像』Ⅱ.イベリア(ibéria)


2曲の『イベリア』 は、一番最初に完成した曲。3つの曲の中では最大の規模を持ち、3つの曲から構成されているが演奏は続けて行われる。初演は19102月に行われた。各曲の作曲時期、楽器編成は異なる。組曲の体裁はとられているが、各曲は半ば独立した作品と見ることができる。以下の曲順は全曲の作曲後に決められたものであるが、この順に演奏する場合と完成順に演奏する場合とがある。また、しばしば『イベリア』のみが単独で演奏される。

 

1) 街の道や田舎の道を抜けて(par les rues et par les chemins

1906年~1912年,ドビュッシー40代後半の作。着手に先駆け「悪夢のような」離婚騒動のすえ19058月にリリーと別れたドビュッシーは、パリ郊外ブローニュ森大通り80番地の戸建てへ移り住んだ。銀行家の妻だった新妻エンマは贅沢な暮らしに慣れており、シュシュの誕生で乳母を雇う必要も生じ生活費を圧迫していた。

 

新婚旅行から戻った直後にリリーは自殺を謀り、これが報道されたことにより多くの友人が彼の下を離れていった。そうした私生活を反映してか交響詩『海』以降も筆は進まず、ラウル・バルダック宛書簡(1906224日)には

「とても少ししか音楽を書いていないのですが、まったく気に入りません」

と記し、デュラン(同418日)には

「虚無の工場の中で腐り果て続けている」

と愚痴をこぼしている。

『映像』はこうした時期を経て書かれ、完成までに6年半を要した。

 

2) 夜の薫り(les parfums de la nuit

ドビュッシーが『映像』を最初に構想したのは、1896年頃のことである。この時はピアノ曲独奏用の二編を含んだ全二巻十二曲からなる大規模な連作として構想され、1903年には『管弦楽のための映像』となる二台ピアノと管弦楽のための三曲を、二巻のピアノ独奏が挟む大規模な作品となり、デュラン社と契約書も交わされている。しかしながら、3つの映像が連作として言及されたのは、これが最後であった。

 

二年後のデュラン宛て書簡(1905年5月16日)の中で、この三曲は2台ピアノのための映像として再度触れられた。この時は、第1楽章が「悲しきジーグ」(Gigues tristes)、第2楽章「イベリア(ibéria)」、第3楽章「ワルツ(Valse)」の3曲となり,楽章が入れ替えられている(Debussy 1927

 

3) 祭りの日の朝(le matin d'un jour de fête

全曲初演は当初、シュヴィヤールへ依頼することが考えられたものの、彼は「ジーグ」だけを別に指揮することを望んだため依頼を断念。「イベリア」の演奏解釈に難を感じていたにもかかわらずピエルネに変更され、結局は作曲者自身の指揮により、コロンヌ管弦楽団の定期演奏会で初演された。批評家の評価はいつもの如く大きく分かれたものの,否定的な見解は押し並べて少なかった。

 

この『管弦楽のための映像』こそは、ドビュッシーの「印象主義音楽」の真髄を楽しむのには、まさにうってつけの作品と言えるような、その技巧が晩年に至っていかに究められたかがわかる作品だ。ただし、ドビュッシーのビギナーがいきなりこれを聴いてしまうと、恐らくは

 

「なんじゃ、こりゃ?

さっぱり、わけわかんねー・・・」

 

ってな事になろうかと思われるが ニヒヒヒ ( ̄*

2005/12/30

ドビュッシー 管弦楽のための『映像』Ⅰ.ジーグ(gigues)

 


『映像』(Images)と名付けられた作品は、全部で3つある。

 

1巻(1905)と第2巻(1907)はいずれもピアノの為に書かれ、第3巻も含めて全て3つの曲から構成されている。この第3巻は管弦楽のための作品ではあるが、元々は第2巻の姉妹篇として2台ピアノのための作品として構想されたが、作曲の途中でこれを管弦楽の為に作品に発展させた。

 

ドビュッシーは、この作品に対して

 

「『映像』では、何か異なったものを試みた。ある愚者はまったく間違えた用いかたをして印象主義と呼んでいるもの、特に神秘的な効果の最大の創造者であったターナーに対して、批評家たちが何の躊躇いも無く適用したものだが、そのリアリティの効果である」

 

と述べている。

 

3曲の《春のロンド》の初演は1910、コンセール・デュランでドビュッシー自身の指揮で行われた。『映像』に於いては3つの曲をそれぞれイギリス、スペイン、フランスの異なる風土的素材を求めているが、それがドビュッシーが述べた「何か異なったもの」に結びつくものと考えられる。

 

この3つの曲は、それぞれ独立している。第1曲の《ジーグ》は実際には最後に書かれた曲で、オーケストレーションの最後の部分はドビュッシーの弟子のアンドレ・カプレによって仕上げられ、1913年に初演が行われた。

2005/12/28

すき焼き(鍋の美味しい季節ですpart1)

 寒い季節は、やはり鍋。作るのも簡単で体も暖まり一石二鳥はおでんも鍋物も同じですが、おでんよりは鍋物が好きなのは肉や魚が好きなせいでしょう。

適度な大きさに切った材料を煮立った鍋にぶち込むだけと手間が要らず、しかも肉や魚、野菜と一度に色々食べられるから栄養バランス的にもよしと、まさにいい事ずくめではないでしょうか。まずは、何はともあれ「鍋の王様」すき焼きから登場していただきましょう。

●すき焼き
「すき焼きなら、うちはしょっちゅうやってるよ・・・今夜も食べたし・・・」という人もいるかもしれませんが、それは「本物のすき焼き」でしょうか?

実はワタクシも、そこそこの大人になるまで「すき焼き」と「寄せ鍋」の区別がつかずに笑われた事がありますが、同じように考えている人は少なくないのではないか。そこで、まずは「すき焼きの定義」から、確認していきましょう。

<一般的なすき焼きは、薄切りにした牛肉が用いられ葱、春菊、椎茸、豆腐などの具材が添えられる。味付けは醤油と砂糖が基本で、生卵を絡めて食べる。しゃぶしゃぶの薄切り肉は、熱湯にくぐらせるだけで食べられるほど薄いが、すき焼きの薄切り肉はしゃぶしゃぶに用いる肉よりも厚い事が多い。

名称の由来は、江戸時代には肉を焼くのに使い古した田畑を耕す農具の鋤を火にかざして使っていたとする説と、肉の薄切りを指すすき身に切って鉄鍋で焼いて食べたことに由来する説がある。

日本では幕末になるまで、仏教の戒律などのため牛肉を食べる事は一般には行われていなかった>
出典Wikipedia

つまり、すき焼きの定義は「牛肉」と「生卵」・・・これが寄せ鍋と一線を画す、ポイントと言えるでしょうか。

<1867年に江戸に牛肉屋が開店し、まもなく牛鍋をだす店も登場した。牛鍋は、文明開化の象徴として流行した。1990年代後半にいわゆる狂牛病と呼ばれるBSEにより狂牛病問題が起き、日本では米国産牛肉の輸入が禁止された。これを受けて牛肉を用いる日本国内の外食産業は、豚肉を用いたメニューを加えた。

尚、横浜にはぶつ切り牛肉を使い、適宜、割り下を注ぎながら濃い味噌だれで炒りつけるように煮る、牛鍋を供する名店がある。幕末期、開港場の横浜では牛肉の煮売り屋台があった。イノシシのボタン鍋の転用で、味噌煮込みであったらしい。明治初期の「牛屋(ぎゅうや)」の牛鍋も、こうした味噌鍋が主流であったと思われる。  先述のぶつ切り牛肉の味噌鍋の店も、こうした牛鍋のプロトタイプの名残りと見る事が出来よう>
出典Wikipedia

 <関東と関西では、その調理法に違いが見られる。関東のすき焼きは、明治に流行した牛鍋がベースになっており、だし汁に醤油・砂糖・みりん・酒などの調味料を混ぜた「割下」をあらかじめ用意しておき、これで牛肉を煮る。関西のものは名前の通り牛肉を「焼く」料理で、焼けたところに調味料を直接加えて味付けをし、割下は用いない。東西の食べ方の境界線は、愛知県豊橋市にあると言われる>
出典Wikipedia

この辺りの記述は、かつてワタクシが読んだ本の説明とは、かなり違っております。

<元々、関西は「松坂牛」、「神戸牛」、「近江牛」など牛肉の産地に恵まれた事もあって、肉と言えば牛肉が主流であり、逆に牛肉の産地には恵まれなかった関東では豚肉を使うのが一般的である。豚肉が当たり前の関東では、牛肉を使っている場合は「牛すき」と言うように「」を謳い文句に入れるが、牛肉が当たり前の関西では「すき焼き」といえば、牛肉が当たり前なのである>

いった記述だったと記憶しています。

そして結論的には高価であり、また牛肉はそれほど好きではないワタクシは、専ら「寄せ鍋派」であります。

ワタクシの生まれ育った愛知県は、食文化に関しては明らかに関西寄りといえますが、オヤジが牛肉嫌いだった事もあって、子供の頃からあまり牛肉を食して来た記憶がありません。したがって、いつも母が「今日は、すき焼き風の煮物にしたよ・・・」と言っていた「風」の意味は、豚肉を使っていた事に由来するのだなと気付いたのは、随分と時が経ってからの事でした。

2005/12/26

2005冬物語

 今月は、月初めに2日間休暇を取って鎌倉・箱根・湯河原・修善寺へと温泉旅行としゃれ込みノンビリして来ましたが、そのツケが廻ったか職場ではトラブルが連続して見舞われ、深夜対応が二度(そのうち一回は、明け方の5時過ぎまで対応)に及び、師走らしい慌しさとなりました。

他の人に比べ、仕事をこなすスピードが三倍くらいは速いワタクシ的には、既にXmas前には年内にやっておくべき課題は総て片付けた事もあり、職場では仕事の合間にこっそりとネットショッピング物色していたものです。

ここへ来て急激に寒くなって来た事もあって、最近は自炊で鍋料理を作っていますが冷めた鍋ほど不味いものはないという事で、偶々買い物の時に目に付いた2500円のカセットコンロとボンベ3本セットを買い求め

(さあこれで今日から、ホカホカの鍋が楽しめるぞー)

と歓んでいたのも束の間、どうやら不良品らしくボンベを何度か付け替えてみても一向に火が付かない。

「さっき買ったばかりの、カセットコンロが壊れているよ・・・」

と、スーパーに電話をすると

「それは大変申し訳ありません・・・直ぐにも取り替えさせていただきますが、ご来店のご予定などは・・・?」

「全然ない。平日は忙しいし、土曜まではまだ3日もあるからねー」

事実、この日は目を付けていたコンロを買う目当てで

「会社と年末の打ち合わせが・・・」

とダマクラカシて、定時で帰ったのでした。

無理を承知で

「持って来てくれ」

と言うべきか考えていると、意外にも向こうから

「よろしければ、こちらからお持ちいたしますが・・・」

と言って来たので、勿論二つ返事でOKした事は言うまでもありません。

「そうそう・・・売り場にはワタクシが買った2500円のと、イワタニの3500円のと二種類あったんだけど、あの無名品の方は最早信用できんからイワタニの方を持って来て欲しいねー。ボンベのセットも忘れずに・・・念のため、動作確認もして来てちょうだいな」

すると感心にも若い社員が店から徒歩15分のワタクシの家まで、寒い中をテクテクと歩いて持って来てくれたではないですか。

「寒い中、悪かったねー。
車じゃないの?」

「それが、車が総て出払っておりまして・・・なので歩いて来ました」

「それは大変だったね・・・ごくろーさん。で、差額は幾らだっけ?」

「いえ、もう・・・差額は結構です。ご迷惑をおかけいたしましたので」

「いやいや、そんなつもりはないから・・・どーせ大した事のない額(1200円程度)だし、こうして持って来て貰ったんだから払うよ」

「いえ、本当に結構ですよ・・・折角楽しみにしていたお鍋をお待たせして、ご迷惑をおかけしましたので・・・」

「確かに、もう食べてしまったけどね。そこまで言うのなら、折角だし交換してもらおうか。まあワタクシはオタクの店では、かなりの常連だし」

動作確認済みのカセットコンロは、当然の事ながら勢いよく火が点いた。

 (これで、温かい鍋が楽しめるぞー)

しかしまだ、もう一つの問題があったのだ。それは使っているテーブルのサイズで、これが甚だ狭いのである。幅90cm弱、奥行き60cm、高さ32cmのサイズだが、PCの液晶ディスプレイとキーボードが乗っているため、料理の品数が3品を越えるともう狭くなってしまう。鍋は何とか乗るが、カセットコンロなどはとても乗せるスペースはないため、仕方なくコンロは下に置いて使っていたのである。

正月を迎える事もあり、新しく大きなテーブルに買い換えたかったが、近所のスーパーや無印良品、LOFTなど見て廻ったもののどこも同じようなものばかりで、希望のサイズ等を満たすものがなかった。

ホームセンターがあればいいのだが、あるのはやたらとバカ高い家具屋ばかりで、どうせ使い捨てになるのだから、そんなに高価なものが必要なわけはないのだ。

そこでネット通販に目を向けたところ、こちらには希望のサイズを含めてイメージに合うものが、直ぐに見つかった。

天然木で幅120cm、奥行き75cm、高さ34cmと、これ以上大きくなると部屋が狭くなる事を考慮すればまさにイメージにピッタリのもので、値段も1万円と手頃だったため迷わず注文する。

早速、部屋に置いてみると大きさといい、一見したところはまるで温泉旅館などに置いてあるようなテーブルに見えなくもない(勿論、材質は全然違うだろうけどw)

ともあれ、これで無事に(?)正月を迎えられる事になった。

2005/12/23

ドヴォルザーク 交響曲第9番『新世界より』(第4楽章)

 



4楽章は、非常に有名である。CMや効果音楽などでもよく使われるから、(特に冒頭の部分は)殆どの人が知っているはずだ。冒頭からオーケストラが全開である。

 

まず印象的な導入部から始まるのは総ての楽章に共通するが、第4楽章は特に単なる導入部にしておくのが勿体ないような、非常にインパクトの強いテーマで幕を開ける。この導入部に続いてトランペットが輝かしく、有名な旋律を歌う。続く弦楽合奏が、これまた美しい。

 

3楽章同様に、長閑な感じの民謡風メロディが現れる。冒頭の嵐のような部分を乗り越え、弦のピッチカートなどでひと息入れた後、第2楽章の「遠き山に~」のメロディが何度か繰り返しで登場してくるが、第4楽章の第1主題と似ているため、よく聴いていないと聴き逃しやすい。第1楽章第1主題と第2楽章の「遠き山に~」の主題が絡むが、ここはよく聴いていないと気付かないような、デリケートな処理である。

 

「ドヴォルザークは構成が苦手」どころか、この部分を聴く限りベートーヴェンやブラームスを聴いているような錯覚にすら陥るほどだ。それでいて、ベートーヴェンやブラームスのような圧迫感は感じさせず、素材をうまく開放しているところが素晴らしい。

 

民謡風のメロディが実に泣けるほど美しく、故郷を思うドヴォルザークの哀感が切々と伝わるようである。。さらに、どこまでも美しさが深まっていくのが、この曲の凄いところである。

 

1楽章の第1主題と、第1主題が絡み合いながらクライマックスへとなだれこむが、第2楽章の「遠き山に~」の主題に第3楽章の第1主題が小さく絡んでいる。これまた、実に心憎い構成だ。最後の1音はフェルマータ(延長記号)の和音をディミヌエンド(強弱標語の一。だんだん弱くの意)しながら出すという非常に興味深いもので、指揮者ストコフスキーは、これを「新大陸に、血のように赤い夕日が沈む」と評した。

 

なお、この『新世界より』と言う曲は、一部に(黒人霊歌をそのまま並べただけ)といった批判もあるが、勿論これはデタラメであることは言うまでもない。確かに、黒人霊歌が沢山使われてはいるものの独自のアレンジを加えているし、故郷ボヘミアの民謡の要素なども巧みに織り交ぜてもいるのである。また、タイトルの『新世界より』というのは「新世界アメリカを描写した」という意味ではなく、ホームシックに罹っていた田舎モノのドヴォルザークが「新世界アメリカより、故郷ボヘミアへの想いを綴った」のである(『New World』ではなく『From the New World』)

 

全般的にはボヘミア音楽の語法によりながらも、アメリカで触れたアフリカ系アメリカ人やネイティヴ・アメリカンの音楽要素が見事に融合されており、それらをブラームスの作品研究や第7・第8交響曲の作曲によって培われた西欧式の古典的交響曲のスタイルに昇華させた。このように、東欧・西欧・アメリカの3つの地域の音楽が、有機的な結合で結びついた傑作というに相応しい曲である。

 

ブラームスの支援により、一流作曲家として道を拓かれたのを切っ掛けとして二人の交友関係が始まった。ドヴォルザークの仕事場に遊びに来たブラームスは、何気なくゴミ箱に山と詰まれた失敗作を漁った。クシャクシャになった五線譜を伸ばし、そこに目を落としたブラームスはビックリ仰天。そこには、メロディ創りの不得手なブラームスには涎が出そうな美しいメロディの数々が、いとも惜しげもなく捨ててあったのだ。

 

「ああ・・・私ならドヴォルザークのゴミ箱から、幾つもの名曲が創れるのに・・・」

 

構成には大いに自信のあるブラームスが、ここを訪れる度に嘆いて見せたというエピソードは有名である。つまり、美しく魅力的なメロディなら幾らでも造作なく産み出せるが、それをひとつの音楽として構成するのは得意ではなかったのがドヴォルザークで、片や楽想創りに散々苦心しながら、得意の構成力でつまらないメロディを魅力的に見せるのが得意だったブラームス。このように対照的な二人が、互いに自分の苦手な才能を認め合ったからこそ二人の関係が長続きしたのだろう。

2005/12/22

ドヴォルザーク 交響曲第9番『新世界より』(第3楽章)

 


1楽章と同様、印象的な導入部から幕を開け曲の冒頭からすぐに惹きつけられてしまう。

 

すぐに第1主題が登場するが、冒頭からとにかくカッコ良い。木管による民謡風メロディ(A)が登場する。これまで出てきたテーマと同じく、最初に木管で提示した後に弦楽合奏へと移行する。続いて第1主題の変奏。ここで第1楽章の第1主題が、今度はチェロとヴァイオリンに乗って登場する。

 

民謡風メロディ(B)が登場。これがまた実に美しいが、このメロディは2度繰り返される。3度目の繰り返しの途中で、第1主題の変奏を経て冒頭の旋律に還っていく。

 

民謡風メロディ(A)が、再び登場。圧巻はここからだ。ここで第1楽章の第1主題がホルンで登場する。木管による第3楽章主題の断片と絡み合いながらの展開が素晴らしい。断片的に聴こえる第1主題の中を縫うように第1楽章の第1主題が再登場し、さらにトランペットによって第1楽章の第3主題がエコーする。この辺りの処理の手際も実に見事だ。

 

一流の作曲家にも、美しく魅力溢れるメロディを生み出すのが得意な「右脳派」と、メロディよりも論理的な楽章構成に力を発揮する「左脳派」など様々なタイプ分けが出来そうだが、ドヴォルザークの場合は典型的な「右脳派」だ。構成は苦手と言われながら、メロディ創りに関しては魔法使いのように、次々と斬新かつ素敵なメロディを編み出してきた。

 

まだ名が売れていなかった頃のドヴォルザークの才能に逸早く着目したのはブラームスだった。ハンガリー民謡にテーマを採った自らの『ハンガリー舞曲集』の成功を踏まえ、スラブ系民族のドヴォルザークにインスピレーションを与えると、忽ちにして稀代のメロディメーカーは『スラブ舞曲集』という素晴らしい連作曲集を作成してしまったのだった。

 

ドヴォルザークは、この第3楽章をインディアンの伝説的な英雄を扱ったロングフェローの《ハイアワサの歌》の中の「結婚の祭典」のところでインディアンたちが踊っているのを描いた詩からの霊感で作曲したと言われる。木管に哀愁味のある新しい旋律も歌わされていて、非常に幻想的で美しい楽章である。全曲中で最も目立たない第3楽章と言えるが、決して他楽章にも引けを取らない充実度だと思う。

2005/12/21

ドヴォルザーク 交響曲第9番『新世界より』(第2楽章)


まずは主題らしき旋律が登場し、ファゴットによるソロが続く。次いでファゴットによる新たな主題が登場。この主題は、最も重要かつ実に美しくソリストの晴れ舞台だ。弦楽合奏による、第2主題の変奏へと移る。

 

オーボエ&クラリネットの掛け合いが絶妙だ。続いて、ヴァイオリンの合奏が続く。  何度聴いても聞き惚れてしまう美しい旋律である。聞き覚えのあるメロディが登場するが、これは第1楽章のテーマであることにお気づきだろうか?

 

しかもよく聴いてみると、第1楽章第1主題に続いて第2楽章の「遠き山に~」が出て、さらに形を変えた第1楽章の第3主題も、それに被さるように出てきているではないか。この辺りの処理は、実に巧妙だ。こうした細かいところに気付けば音楽がより一層楽しくなるし、気付かなければつまらないのである。

 

金管による第1楽章第1主題と第3主題の旋律の巧みな融合が、第2楽章のテーマに効果的に溶け込んでいる。味わい深いヴァイオリンの調べから、弦楽合奏へと移る辺りは郷愁を誘うようで、胸が締め付けられる思いがする。

 

この曲の隠し味となっている、黒人霊歌の下地が出来た経緯はこうだ。ドヴォルザークはアメリカで「ナショナル音楽院」を経営する金持ち婦人から招かれ、音楽院の院長となった。その学校に黒人の学生がいて、歌好きの彼はいつも鼻歌を口ずさんでいる。この青年の歌の上手さもさることながら、これまでに耳にした事がなく、しかしどことなく故郷ボヘミアの民謡に似た、この魅力溢れる旋律の虜となったドヴォルザークは、その学生を呼んで自らの前で繰り返し歌って欲しいと頼み込んだ。勿論、この歌好きの学生は得意げに、自慢の喉を披露した。

 

この時の体験が、ドヴォルザークの大きな財産となっていく。このような経緯のため、この曲(特に第2楽章)について「黒人霊歌を並べただけ」というトンデモな批判があるが、バカを言ってはいけない。黒人霊歌はあくまで参考にしただけで、実際にはドヴォルザークのオリジナルなのである。

 

全体から見ると、この第2楽章だけが浮いた感じは否めないとはいえ、実は第2楽章のみならず他の楽章でも巧みに、この黒人霊歌が使われている。第3楽章の中間部で展開する、鄙びた感じの美しいメロディなどもそうだ。このようにして、巧みに黒人霊歌をアレンジした独自の旋律を織り交ぜながら、夢から覚めた後は一気呵成に満艦飾のような第4楽章になだれ込むといった感じの、あのめまぐるしく変化していくような展開は実に目を瞠る。

 

音楽の三大要素は「リズム」、「メロディ」、「ハーモニー」と言われる。一流と言われる作曲家ともなれば、当然このバランスを巧みに操ってくるのはお手の物だが、一流とは言ってもそれぞれの嗜好や得意分野といったものもあるだろう。かの偉大なモーツァルトは

 

「メロディこそ音楽の真髄です」

 

と言われたそうだが、僭越ながらド素人のワタクシも諸手を挙げて同感だ。

 

音楽史に残る偉大なメロディメーカーといえば、このアマデウス様を筆頭にチャイコフスキー、メンデルスゾーン、シューベルトなど数え上げていけばそれこそキリがないが、その中でも「メロディの王様」と称されるのが誰あろう、チェコ(ボヘミア)の産んだ偉大な作曲家のドヴォルザークである。

 

ある毒舌評論家が

 

「まるで美味しいケーキを幾つも並べたような・・・」

 

と『新世界より』評したのは、実に上手い比喩である。第1楽章から、いきなり3つの魅力的な主題が次々に現われ、アッという間に惹き込まれてしまうのだ。

 

通常、4楽章編成の交響曲の場合、緩徐楽章に当てられる第2楽章か第3楽章のところは、ややつまらなくなってしまいがちだが、この曲の場合は第2楽章が非常に有名だ。イングリッシュホルンによる主部の主題は非常に有名であり、ドヴォルザークの死後にさまざまな歌詞をつけて「家路」、「遠き山に日は落ちて」などの愛唱歌に編曲された。

 

キャンプファイアーなどで、歌ったことがありませんか?

「遠き山に日は落ちて」(堀内敬三作詞)の歌詞。

遠き山に 日は落ちて 星は空を ちりばめぬ

きょうのわざを なし終えて 心軽く 安らえば

風は涼し この夕べ いざや 楽しき まどいせん まどいせん

 

やみに燃えし かがり火は 炎今は 鎮まりて

眠れ安く いこえよと さそうごとく 消えゆけば

安き御手に 守られて いざや 楽しき 夢を見ん 夢を見ん

2005/12/20

ドヴォルザーク 交響曲第9番『新世界より』(第1楽章)

 


若い頃から、熱心なワグネリアン(ワーグナー信奉者)だったドヴォルザークは、皮肉にもワーグナーとは犬猿の仲で楽壇を二分する形で対立していたブラームスによって才能を見出され、世に送り出された。こうした経緯から、恩人であるブラームスに義理立てをして、長きに渡ってワグネリアンとしての正体を隠していた。

 

ドヴォルザークが晩年を迎えたころ、ブラームスが天に召された。

 

「煩いブラームスのオヤジが居なくなって、これで自由の身になれたわい」

 

とばかり、これまで抑えに抑えつけてきた鬱憤を一気に吐き出した(?)

 

それが、ドヴォルザーク最後の交響曲『新世界より』である。最後の最後で本領を発揮したこの曲こそ、今やベートーヴェンの第5番(運命)、シューベルトの『未完成』などと並んで音楽史に残る超有名曲となった。個人的には『未完成』よりは出来がよいし、あの『運命』と比べても遜色のない素晴らしい曲だと思っている。

 

元来がワグネリアンであるところへ持って来て、さらに「メロディの王様」と称されるくらいの人が本気になったら、こんなにもド派手で煌びやかな曲が創れますよ、というサンプルのような曲である。

 

ü  大好きな曲だ・・・てなことはどーでもいいが、まず冒頭の序奏でホルンとフルートが活躍を印象付ける。これは主題でもなんでもない単なる導入部の扱いだが、早くも惹き込まれてしまうようなカッコ良さである。

 

ü  ホルンとオーボエが第1主題を歌い上げ、フルートがそれに応じるところが絶妙だ。続いて弦楽合奏に移行し、途中からトランペットも加わる。この第1主題は、第1楽章に止まらず全曲を通じて現れる。全曲の統一感を出すための非常に重要な役割を担っている。

 

ü  2主題がフルートとオーボエによって提示される黒人霊歌を思わせる旋律。第1主題と同じく、最初は木管のソロから始まり弦楽合奏に移行する。これが、また実に美しい旋律。

 

ü  1分刻みで、第3主題が早くも登場してくる。「メロディの王様」が「美味しいケーキを幾つも並べたような」めまぐるしい展開で、最初から力技で圧倒してくるような迫力。

 

ü  ここまでの3つの主題の提示が終わり、ここから展開部に移る。ここからが、作曲家の腕の見せ所だ。

 

ü  まず、第3主題が登場。第3主題と第1主題が絡み合い、そのまま第1主題が様々な楽器で奏でられた後に変奏で引き取る形となるが、それだけではない。  よく聴いてみると、第3主題のテンポを2倍速にしたものが、第3主題自身の伴奏になっているという念の入りよう。

 

ü  久々の第2主題が、フルートで再登場。この展開部が、なんとも美しい。

 

ü  3主題がフルートで再登場の後、金管、さらにフルオーケストラとなって変形した第1主題と絡み合いながら、ド派手な終結部へとなだれ込む。まことにドヴォルザークらしい展開だ。

 

Classis音楽は、漫然と聴いていると繰り返しばかりで退屈に聴こえるかもしれないが、実はこんなにも手が込んでいるという一例である。とにかくカッコ良いの一語に尽きるし、この完成度の高さは神の領域と言うしかない。僅か10分という時間の中に、まさに「美味しいケーキを幾つも並べたような」(某評論家)楽しい要素がギッシリと詰まっていながら息苦しさはなく、あくまで開放的なイメージなのだ。

 

4楽章の中で圧倒的な人気の最終楽章や第2楽章よりも、この第1楽章が最も好きだ。

2005/12/19

揖保の糸


 食べ物に関しては比較的無頓着だったオヤジでしたが、そうめんにはかなりの拘りがあったらしく「オレは、揖保の糸しか食わん」などと申しておりました。申していただけでなく実際に揖保の糸専門だったようで、お中元などで各地の美味そうなそうめんが送られて来ても、やはり「オレは、揖保の糸しか食わん・・・」と揖保の糸以外の麺は、総て必然的に麺好きのワタクシメへと、お鉢が回って来たものでした。

まだ子供だった当時は「揖保の糸」と訊いても、なんの事やらサッパリで、これが兵庫県だと知ったのは大学時代に関西へ移住してからです。

<斑鳩寺(揖保郡太子町)の寺院日記『鵤庄引付』中、1418年(応永25年)915日の条に「サウメン」の記述がある。素麺に関する記述として、播磨国では最古のものであり、この頃から素麺の生産が行われていた。
1865年(慶応元年)、当時の龍野藩・林田藩・新宮藩の素麺屋仲間の内で「素麺屋仲間取締方申合文書」が交わされ、品質等について取り決めたが、廃藩置県によりそれまでの藩の保護を失った製麺業者は1872年(明治5年)に明神講が、1874年(明治7年)には開益社が設立している。>
出典Wikipedia

では、この「揖保」という地名の由来を探っていくと・・・

<『天日槍命(あめのひぼこのみこと)が渡来して、宇頭の川(古代揖保川下流域の称)底にやって来て、伊和大神(葦原志拳乎命・あしはらのしこおのみこと)に「あなたは国主だから、わたしの住む場所を捉供して欲しい」と頼んだ。

伊和大神は、国土を奪われる事を恐れ「海中ならよい」といって、上陸を許さなかった。天日槍は剣で海水を掻き回し、波浪の上に座り込んだ。

 思わぬ大敵に伊和大神は恐れを抱き、天日槍より先に国を支配したいと考え、揖保川沿いを北上する。その途中の丘で食事をとったところ、慌てていたので口から飯粒がポロポロこぼれ落ちた。そのため、今でも丘の小石は飯粒の形をしており、丘の名も「粒丘(いいつぶのおか)と呼ぶようになった」となります。

●ポリネシア語による解釈
<揖保郡は、揖保川の下流域の地域です。
『播磨国風土記』は、揖保郡揖保里の「粒(いひぼ)山」の名は、葦原志挙乎(あしはらのしこを)命が、天日槍(あめのひぼこ)命と国の占有を争ってこの山に来て食事をした際、(飯)粒が落ちた事によると記しています。

『和名抄』は、揖保郡・郷を「伊比保」と訓じています。この「いひぼ」は、「イヒ(上)・ホ(秀)」で高い山の意とする説があります。しかし、これは次の川名からきた地名です。

<揖保川は兵庫県西部、鳥取県との県境付近の氷ノ山(ひょうのせん。1510m)に源を発する引原川が、宍粟郡一の宮町で三方川と合流して揖保川となり、龍野市付近から市川、夢前川と複合三角州を形成し、河口付近で林田川と合流すると共に中川を分流し、姫路市網干で播磨灘に注ぐ川です。この「いひぼ」は、マオリ語の  「イヒ・ポウ」、IHI-POU(ihi=split,separate;pou=pour out)、「(河口で支流を)分けて(海に)注ぐ(川)」の転訛と解します>
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/