1778年、ケルンのシュテルンガッセ音楽堂での演奏会に出演したベートーヴェンは、年齢を若く偽っていた。この頃、作曲家のクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事し、その音楽性に大きな影響を受ける。
1787年、16歳のベートーヴェンは初めてウィーンでモーツァルトに出会い、モーツァルトの弟子になる事が決まった。だがこの年、最愛の母マリアが病気のため亡くなった。 このためベートーヴェンは、酒に溺れて浮浪者のような父と、まだ幼い二人の弟たちの世話をせざるを得なくなり、音楽の勉強もままならない時期があった。
そのような辛い時期を乗り越え、22歳ではヴィーンで活動を開始し、ハイドンに師事する。ベートーヴェンは、公式には一応「ハイドンの弟子」という事になっていた。しかしハイドンは多忙ゆえか、音楽性の違いゆえかベートーヴェンを可愛がらなかった。このためハイドンに内緒で(?)、他の先生にも習ったりしているが、その中には映画『アマデウス』で有名になったサリエリもいた。
ハイドンとは、直ぐに音楽理論の違いにより喧嘩別れとなる。当時のベートーヴェンが22歳だから、ハイドンは60歳くらいのはずである。師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は
「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」
と突っぱねた。一流作曲家として不動の名声を勝ち得ていた、親のように歳の離れたハイドンに対しても一歩も引かなかったベートーヴェンの性格の強さと、自らの音楽に対するプライドが充分に窺えるエピソードとして有名である。
当初は、ピアノの即興演奏で名声を高めた。この時、父ヨハンが亡くなる。20歳代後半から持病の難聴が悪化し、32歳のとき「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる遺書を書くが、この時の絶望から再起し34歳の時に、交響曲第3番「英雄」を発表。その後、約10年間にわたって中期を代表する名作が次々に書かれ、ロマン=ロランが命名した「傑作の森」と呼ばれる黄金期を迎える。
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