2005/10/14

先斗町

 学生時代を京都で過ごしたワタクシにとって、多くの若者がそうであったように祇園と並んで憧れの地が「先斗町」でした。御所から四条河原町辺りまでを根城に、連夜のように遊び耽っていた学生時代のワタクシにとって、祇園や先斗町は一応「守備範囲」にはスッポリと収まってはいましたが、あの独特の風情には何度通っても胸をときめかせずにはいられないものがありました。

貧乏学生にとっての現実は、精々が悪友どもと八坂神社から産寧坂辺りをしなしなと歩いている、美しい舞妓はんや芸妓はんを冷やかして歩くのが関の山で、取り澄ました相手には洟も引っ掛けられませんでしたが。

しかしながら、そもそも考えて見れば(というか考えるまでもなく)「先斗町」というのは非常に風変わりな地名であり、以前に紹介した「祇園」にしろこの「先斗町」にしろ、このいかにも京らしい風雅な香りのする地名こそが尚の事、我々イナカモノたちの憧れを掻き立ててくれるのでしょう。

そんなわけで(って、どんなわけ?)、今回は長年の憧れであった「先斗町」の由来を探る、ネットの旅に出ました。

《元この地は鴨川の洲であったが、寛文十年(1670)に護岸工事を行って石垣を築き、洲を埋め立てて宅地とした。まもなく人家が建ち始めたが、これらは総て川原にのぞむ片側のみであたかも先ばかりであったから、先斗町と呼ばれたという。 一説に先斗はポルトガル語のポント、英語のポイントでいずれも「」を意味する。
この地があたかも川原の崎であったから、そのころ世に流行した「うんすんかるた」などによって、かかる外来語をもじったものだろうともいわれ、諸説明らかではない。この地に、水茶屋が初めて設けられたのは正徳二年(1712)の頃といわれ、次いで文化十年(1813)に芸妓渡世が認められた。以来、幾多の変遷をみたが、祇園や上七軒とともに今なお殷盛を極めている》

《この町を南北に貫く道は極めて狭く、べにがら格子の家が両側に建ち並び東西に五十番まで数える大小の路地がある。したがって雨の降る日は、往来する芸者と傘を傾け合って通りぬけねばならぬのも、ここならではの風情であろう。  新村出博士の「先斗町袖すりあふも春の夜の他生の縁となつかしみつゝ」なる詠歌は、すなわちこの景を敍したものである。また「かたむけて春雨傘や先斗町-きぬ-」、「相触れて春雨傘や先斗町-常悦-」などと、幾多の句にも歌われた。
祇園新地の如く格式ばらず、昔から庶民的なところがあってこれが一般に好感された。されば幕末の頃には諸国の浪士も多くここに遊宴し、幾多のロマンスの花を咲かせた。この伝統の気風はいまも受け継がれ、鴨川踊にも常に新しいものを大胆にとり入れている》

 《先斗町通が出来たのは、寛文八年(1668)に大規模な鴨川改修が行われてからの事である。幕府は、鴨川右岸と左岸に石垣を築き洪水防止を図ったがこの時、右岸の鴨川沿いに造成されたのが先斗町と先斗町通。四条通から木屋町通までを、石垣にちなんで西石垣通(さいせきどおり)と呼んでいる》

《先斗町通に最初の家が建ったのは若松町あたりで、延宝二年(1674)
それから続々と建てられ、30数年後の正徳二年(1712)には「生洲株」が公認され、料理茶屋・旅籠屋などが軒を連ねた》

《遊びどころ先斗町。四条大橋西北詰から北へ延びる細い路地は、祇園と並ぶ遊興地だ。人が二人並んで歩くのがやっとの路地の左右には、芸妓さんを抱える置屋が並び竹で作られた犬矢来が、京都らしさを漂わせている。飲食店やバーなどもあり、さらに細い脇道にもびっしりと小さな店舗が軒を連ねる。夏は鴨川べりに床が出され優雅な流れを見ながらの料理が楽しめ、秋には歌舞練場にて鴨川をどりの公演があり、華やかな京舞を見る事が出来る。
先斗町の名の由来は、鴨川の岸の先端に人家が並んだので「先き斗り」と書かれたとも、ポルトガル語の「ポント」と言う言葉には「」とか「尖端」の意味があり、そこに由来するとも言われる》

どうやら、ポルトガル語で「」を意味する「ポント」から来ているというところは一致しているようであり、では何故ポルトガル語に由来するのかと考えれば、京都に初めて入国したと言われるのがポルトガル人の宣教師だから、彼がこの地を訪れたか、またはそんな関係であろう事は容易に想像が付きそうです。

こうなると「先(=ポント)町」ではなく、何故「先斗町」になったのかという疑問が最後に残りますが、これについてのワタクシの解釈は「」はフランス語にしばしば見られるような「あえて発音しない文字」ではないのかと。事実、味気ない「先町」よりは「先斗町」の方が、字面的に遥かに京らしい豊かな風情が漂ってきそうではないか。

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