2007/07/31

浅草寺(3)

その他の堂宇等

駒形堂

寺の南方、隅田川に架かる駒形橋西詰の飛地境内にある小堂。本尊は馬頭観音立像(秘仏)。浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったという。現在の堂は鉄筋コンクリート造、方三間、宝形造で、平成15年(2003年)に建て替えたものである。堂は元来は隅田川に向いて建てられていたが、現在の堂は江戸通り側を正面とし、川には背を向けた形になっている。

 

二尊仏

宝蔵門手前右手にある2体の露座の銅造仏像。「濡れ仏」と通称する。向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩像である。台座を含めた高さは約4.5メートル。貞享4年(1687年)の作で、台座の刻銘によれば、上野国館林(群馬県館林市)の高瀬善兵衛という人物が、かつて奉公した日本橋の米問屋成井家への報恩のために造立したものである。

 

久米平内堂

二尊仏の手前にある小祠。ここに祀られる久米平内(くめのへいない)は、講談等に登場する半ば伝説化された人物である。その伝記等は定かでないが、剣の道に優れ、多くの人の命を奪ったので(首切り役人だったともいう)、その罪滅ぼしのために、自らの像を仁王門の近くに埋めて、多くの人に踏みつけさせたという。「踏みつけ」が「文付け」(恋文)に通じることから、縁結びの神とみなされるに至った。

 

弁天山

宝蔵門の東方、広場の奥にある小山を「弁天山」といい、石段上に朱塗りの弁天堂、その右手に鐘楼が建つ。弁天堂は鉄筋コンクリート造で昭和58年(1983年)の再建。鐘楼は木造で、昭和25年の再建。この鐘楼に架かる梵鐘は江戸時代の人々に時を知らせた「時の鐘」の1つで、元禄5年(1692年)の銘がある。松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」と関連して説明されることが多いが、この句は現存する鐘の鋳造の5年前の貞享4年(1687年)に詠まれたものである。弁天堂への石段の左側には、芭蕉の「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」の句碑がある。

 

影向堂(ようごうどう)

本堂の西側にある。鉄筋コンクリート造、寄棟造、錣葺き(しころぶき)屋根で、平成6年(1994年)の建立。堂内には本尊聖観音像のほか、十二支の守り本尊である8体の仏像を横一列に安置する。影向堂の周囲には六角堂、橋本薬師堂、石橋などがある。影向堂の左に建つ六角堂(東京都指定有形文化財)は室町時代の建立で、小規模ではあるが、境内最古の建物である。堂内には日限地蔵(ひぎりじぞう)を本尊として祀る。石橋(東京都指定有形文化財)は、かつて境内にあった東照宮(徳川家康を祀る)への参詣用に造られたもので、元和4年(1618年)、東照宮が勧請された際に建造された。東照宮自体は焼失後再建されていない。

 

淡島堂

影向堂のさらに西側に建つ。江戸時代、元禄年間に紀州(和歌山市)の淡島明神(淡嶋神社)を勧請したことから、この名がある。木造、入母屋造。平成7年(1995年)、境内地の再整備の際に旧影向堂を移して淡島堂としたものである。この堂は昭和30年(1955年)までは浅草寺の仮本堂であった。堂内には本尊阿弥陀如来坐像、向かって左に淡島神の本地仏とされる虚空蔵菩薩像を安置する。毎年28日に、この堂で針供養が行われることで知られる。

 

鎮護堂

本坊伝法院の鎮守で、伝法院通りを西方に向かって歩いた右手に入口がある。伝法院は非公開だが、敷地の南西にある鎮護堂のみは公開されており、ここから柵越しに伝法院の回遊式庭園が瞥見できる。ここに祀られる「鎮護大使者」とはタヌキである。明治時代の初期、境内には多くのタヌキが住み着き、寺では手を焼いていた。ある夜、当時の住職の夢にタヌキが現れ、「自分たちを保護してくれるならば、伝法院を火災から守ってやろう」と住職に告げたため、この堂を建てて鎮守とすることにしたという。切妻造の拝殿の奥に建つ本殿は、大正2年(1913年)の建立。

 

境内の銅像、碑等

ü  大谷米太郎夫妻像 - 本堂裏。宝蔵門を再建寄進した大谷米太郎夫妻の胸像。昭和42年(1967年)の造立。

ü  九代目市川團十郎「暫」の像 - 本堂裏の駐車場隣。当初、大正8年(1919年)に造立されたもので、彫刻家新海竹太郎の作であったが、第二次世界大戦時の金属供出で失われ、昭和61年(1986年)、十二代目市川團十郎の襲名を期に再建されたものである。

ü  松尾芭蕉句碑 - 弁天山石段の左方。寛政8年(1796年)建立。

ü  迷子知らせ石標 - 本堂前。江戸に数箇所あった迷子知らせ石標の1つで、安政7年(1860年)に建立されたが、現在立つ石標はは昭和32年(1957年)に復元されたもの。

ü  「鳩ポッポ」の歌碑 - 本堂前。東くめ作詞、滝廉太郎作曲で、明治33年(1900年)に発表された童謡「鳩ぽっぽ」の歌詞と楽譜を表した碑。昭和37年(1962年)の建立。なお、この曲は文部省唱歌の「鳩」とは別の曲である。

ü  映画弁士塚 - 淡島堂南側の「新奥山」と称する一画に立つ。無声映画時代に活躍した弁士を称えるために昭和33年(1958年)建立された。題字は鳩山一郎の書。

ü  喜劇人の碑 - 「新奥山」にある。昭和57年(1982年)建立。川田晴久を筆頭に、物故者となった日本の喜劇人の名が刻まれている。

ü  瓜生岩子像 - 「新奥山」にある。瓜生岩子(1829 - 1897)は、今の福島県喜多方市の出身。生涯を弱者、貧困者の救済、社会事業に捧げ、日本のナイチンゲールと称される人物である。銅像は明治34年(1901年)に造立されたが、第二次大戦時の金属供出で失われ、昭和30年(1955年)に再建されたもの。

ü  『こちら葛飾区亀有公園前派出所』記念碑 - 浅草神社鳥居脇。平成17年(2005年)に秋本治の漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の単行本の発行部数が、13000万部を突破したことを記念するため建立された。同作品の主人公である「両さん」こと警察官両津勘吉は浅草育ちという設定になっており、両津の少年時代のエピソードを題材にした「浅草物語」の巻に浅草神社が登場した縁により建立されたものである。

この他、浅草神社境内には久保田万太郎句碑、川口松太郎句碑、河竹黙阿弥顕彰碑、市川猿翁(二代目市川猿之助)句碑、初代中村吉右衛門句碑などがある。


考古学上の遺跡としての浅草寺

古代から中世・近世(江戸時代)と長い歴史を有す浅草寺は、考古学上重要な歴史資料をその地下に包含した浅草寺遺跡でもある。戦災で焼失した五重塔再建に先立ち、昭和45年(1970年)には再建地点の発掘調査が行われ、学術的に貴重な成果が得られた。特にこの調査は、葛飾区葛西城跡の発掘調査や千代田区都立一橋高校内の発掘調査と並び、それまでの日本考古学では研究対象とされていなかった中世や近世(江戸時代)の遺跡調査の嚆矢となり、特に近世考古学の出発点となる学史上の記念碑的調査となった。その後も、台東区教育委員会による浅草寺境内及び周辺での発掘調査が地道に続けられ、従来の文献資料研究が描いてきた浅草寺及び浅草の歴史像の大幅な修正を迫る発見が相次いでいる。

東京の夏

 7月も今日で終わりというのにまだ梅雨が空けないらしく、連日鬱陶しい雨雲が東京の上空を覆っている。

7月生まれだからといって、真夏の酷暑が好きというわけでもないが、これだけ雨が続けば

「暑くてもいいから、いい加減カラッと晴れてくれよ」

と、言いたくなろうというものだ。

そんな雨の合間を縫うようにして、7月はこっそりとお誘いを受けて柄にもないディズニーランドに行ったり、隅田川の花火を見物に行ったりしたが、どこもやたらと人が多いうえジメジメとした湿気が一層、暑さに拍車を掛けるばかりである。

特に隅田川の花火に至っては、早めに浅草寺へ行ってまったり観光を楽しんでいると、気付いた頃には境内が人で埋まっているではないか。既に夕方前には、花火見物客のビニールシートで境内が埋め尽くされ、歩く事さえままならない混雑である。大して旨いとも思えないどの屋台も物凄い行列で、楽しみにしていたイカ焼きやたこ焼き、或いは焼きサザエを買うなどは、夢のまた夢という有様だ。

1500円也もする堅い肉のBBQ串を買うのが関の山で、五重塔を眺めてビールを飲んでいるだけでも、汗が止まらない。汗だくになりながらも、執念で最後まで見届けた花火は美しいものだったが、あの混雑を考えたら二度と同じコースでは行きたくない、というのが本音かもしれない。

東京に住む前にも、こうしたイベントには比較的良く出かけていた方だったが、東京のイベント会場や観光地の混雑の凄まじさたるや、どれも常軌を遥かに逸しているだけに生半可な覚悟では出掛けられないと、改めてエセ東京人は痛感する事になった。

この一ヶ月で、中央線や山手線の混雑(ラッシュ時間でもないのに)も、嫌というほど経験し

JRでの通勤だけは、御免蒙る・・・)

と祈るような気持ちだったワタクシは、奇跡的に通勤ラッシュから外れた路線で、しかも30分程度で通えるという新しい現場に、こっそりと参入した・・・と思ったら、やはりかなりの混雑なのだった(例によって、いつまで続くかはわからないw) (゜艸゜;)フ゛ッ

2007/07/30

浅草寺(2)

近代

浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治7年(1874年)には境内が公園地に指定され、明治18年(1885年)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。明治23年(1890年)には、商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。

 

大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では、浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年)310日、東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。太平洋戦争後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。

 

境内

雷門

表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから、正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが、昭和35年(1960年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して、病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。

 

風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。

 

仲見世

雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にはみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。

 

宝蔵門

雷門をくぐり、仲見世の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することから、かつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。

 

2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500kgを使用している。

 

耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため、平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン成型瓦を全国ではじめて採用した。使用したチタンは表面にアルミナブラスト加工を施したもので、それらをランダムに配置することで土瓦特有の「まだら感」を再現し、瓦と変わらない外観となっている。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。

 

本堂

本尊の聖観音像を安置するため、観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので、鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。

 

内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。宮殿の扉の前には「御戸張」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられていて、時々デザインの違うものに掛け替えられている。毎年1213日に開扉法要が行われ、短時間開扉されるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も参拝者が目にすることができるのは「お前立ち」像のみで、秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の手前左右には脇侍の梵天・帝釈天像、堂内後方左右の厨子内には、不動明王像と愛染明王像を安置する。

 

五重塔

再建前の塔は慶安元年(1648年)の建立で本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので、鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラダープラのイスルムニヤ寺院から将来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。現在、その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれている。

 

二天門

重要文化財。本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は、上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。

 

浅草神社

本堂の東側にある。拝殿、幣殿、本殿は重要文化財。浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社である。明治の神仏分離以降は、浅草寺とは別法人になっている。

 

伝法院

宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。一般には公開していない。

2007/07/29

浅草寺(1)

浅草は、東京都台東区の一地区。浅草一丁目から七丁目まで存在する。戦前は東京随一の繁華街として栄えた。関東大震災と戦災で壊滅的な被害を受けたが、そのたびに目覚ましい復興をとげてきた。高度経済成長期以降は山手線沿線の池袋、新宿、渋谷などの発展により、東京を代表する繁華街としての地位はこれらの地区に譲ったが、現在も江戸情緒を感じさせる観光地として賑わっている。

 

近隣には、調理器具等の飲食店関連の用品を取り扱う合羽橋道具街など、特殊な商店街なども存在する。

 

古くからの浅草地区のランドマークとして、浅草寺山門である雷門が知られる。明治後期には、第六区に建てられた十二階建ての凌雲閣が有名となり、浅草十二階と呼ばれランドマークとして認知されていたが、大正期の関東大震災で崩壊。昭和初期には西浅草に森下仁丹が広告塔を建設。仁丹塔の愛称で戦後も長らく親しまれたが、1986年に解体された。1990年代以降には、吾妻橋対岸の墨田区本所にあるアサヒビール本社ビルもランドマークとして認知されつつある。

 


歴史

「吾妻鏡」の1181年(養和元年)の条に浅草の名が見える。古くから浅草寺の門前町として栄えていた。また江戸湊や品川湊と並んで、武蔵国の代表的な港である浅草の港が、石浜(現在の台東区橋場)や今津(現在の台東区今戸町)にあったとされる。

 

江戸時代には仲見世が発展し、後の一大繁華街となるきっかけになった。1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、新吉原遊郭が移転してきた事。1841年(天保12年)の天保の改革では遠山金四郎により、芝居小屋が浅草に移転してきた事による。

 

明治時代には、東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また浅草寺を中心とした地域を明治時代に公園化し、東京初の都市公園である浅草公園となった。浅草公園を6つの区に分けたことから、浅草公園六区ともよばれた。なおこの言い方は、その中で一番にぎやかだった地域である第六区のみを指す場合が多い。

 

明治時代に凌雲閣(通称十二階)などが建てられ、江戸以来の繁華街として新たに演芸場や芝居小屋等が建ち、東京庶民の歓楽街として知られるようになった。関東大震災以降の興行界は、松竹の進出が本格的となり戦前の昭和においては有楽町に進出した東宝と覇を争った。戦後は松竹歌劇団(SKD)の本拠地である国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行で賑わった。

 

しかしながら、後背地に乏しかったこと、常連客を相手にし過ぎた挙句、新規顧客開拓を怠ったこと、山手線から離れていたことなどから、高度成長期には衰退が始まり、一時は見る影も無く寂れた。

 

その後、浅草寺を中心とした門前町エリアは、下町らしさを主とした外国人向け観光地として、ある程度活気を取り戻したものの、西浅草、吉原、山谷などの諸地区は東京でありながら過疎化に歯止めがかかっていない。

 

また、関東大震災後から第二次世界大戦前までに、東武線及び地下鉄銀座線が乗り入れた。

 

浅草寺

東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺院である。山号は金龍山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。もと天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。

 


『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の草創の由来は以下のとおりである。

 

推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。観音像は高さ18分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが公開されることのない秘仏のため、その実体は不明というほかない。

 


その後、大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し、観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらのことから浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。

 

中世〜近世

浅草寺の文献上の初見は、鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181年)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192年)、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。

 

天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は、観音霊場として多くの参詣者を集めた。

 

貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。

朝青龍を追放せよ

 横綱・朝青龍の「仮病疑惑」が話題になっている。

<「腰の疲労骨折とひざ痛で全治6週間」の診断書を提出した725日、母国モンゴルでサッカーに興じている姿が、ニュースで報じられた。身勝手な行動に、夏巡業開催地でも怒りの声が噴出>

というものだ。

朝青龍の暴走は、過去にも数え切れないくらいあった。ワタクシは2004年に、『朝青龍は「第二の北尾(双羽黒)」になる!』という記事を書いたが、その中のポイントを以下に再録する。

2003年の暮れに、横綱朝青龍が所属部屋の先代親方の通夜をすっぽかし、故郷のモンゴルに無断で帰国していたという、前代未聞の「事件」が明らかになりました。朝青龍は、これまでにもケンカ紛いの相撲内容そのものや土俵態度の悪さ、或いは先輩力士に対する礼儀を欠いた振る舞いから同郷の先輩との確執など、繰り返し何度にも渡りその言動が問題視されてきたのは、好角家の方々なら既にご存じの通りです。

さて(中略)年明け早々に、まずは「稽古始め」、続いて年頭の大事な行事である「綱打ち」を欠席するという、背信行為が続きます。「稽古始め」は、いうまでもなく一般人なら「仕事始め」に当たるものですし、また「綱打ち」というのは文字通り横綱の締める綱を若い衆が力を合わせて作る(打つ)もので、朝早くから起きて皆が汗水垂らして一生懸命に拵えている綱は言うまでもなく横綱、つまりは一人しかいないからには、総て朝青龍のためのものです。

なによりも、伝統を大切にするのが国技たる大相撲というものであり、その中にあって一年の最初を飾る行事として位置付けられている事からも、その重要性や神聖さは素人目にも一目瞭然でしょう。その証拠に過去には初場所は休場する事になった横綱でも、この綱打ちには万難を排して駆けつけた例(最近では貴乃花)もあったくらいで、打ち終わった純白の綱を締めて仁王立ちしてみせなければならないハズの当の主役がトンずらしていたのでは、これほど皆の努力を足蹴にした振る舞いはありません。

しかも「その間、どこでなにをしていたのか?」と問われた親方も

「なにも訊いてない・・・  今までも、一度でも報告した事がないヤツだから・・・」

とは良く言えたもので、まさにこの親方にしてこの弟子あり、と最早空いた口も塞がらぬとはこの事でしょう」

ちなみに今回の件でも、師匠の高砂親方(元大関・朝潮)は

<「モンゴルに帰っているとは思わなかった。そんな状況で、巡業に出られないのはおかしい」

と首をかしげた>

などと他人事のような暢気な事を言っていたらしく、どうやら事態の深刻さが未だに理解できていないようなのには呆れた。
 「その後の聴取の結果、またしても無断でのモンゴル帰国が判明するに及び、ここに至って遂に業を煮やした横審委員のナベツネ氏から

『今後、このような横綱としての自覚を著しく欠いた非常識な行動が続くようなら、引退勧告もありうる』

と、遂に最後通牒ともとれる発言が出された・・・」 いう経過があった。

ところがご存知の通り、この後も朝青龍の暴走は止まるところを知らず  「勝ちゃあいいんだろ」とばかりに暴言、放言を繰り返すばかりか、負けた時の八つ当たりといった子供じみた言動のうちはまだしもかわいかったが、遂には八百長疑惑まで噴出し、裁判沙汰に発展して世間を騒がせるという醜態である。

八百長疑惑については、まだ裁判をしている最中であるにもかかわらず、先に行われた名古屋場所で優勝のかかった白鵬との結びの一番でも、明らかに「八百長」としか考えられないような、胡散臭い相撲を取っている(稀勢ノ里に敗れて、優勝を逃した琴光喜が花道で涙を流していたのは、単に優勝を逃した悔しさというだけでなく、あのような八百長で優勝を掻っ攫われた悔しさであったろうと、ワタクシは密かに推測している)

上記からお分かりの通り、ワタクシが3年以上も前に予言した

『朝青龍は、第二の北尾(双羽黒)になる!』

決して予見が外れたのではなく、本来ならとっくの昔に追放になっていてしかるべきところが、横綱が一人もいなくなる事に怯えた協会のバカゲタ弱腰のために、運良く命拾いをして来たというに過ぎないのだ。

いつも事が起こった時だけは「断固たる措置を取る」と息巻いているのに、結局は殆ど実効性のないペナルティでお茶を濁してきたのが相撲協会であるが、度重なる不祥事には関係各所に抗議の電話等が殺到しているとも言われるだけに、これ以上ファンを愚弄する事は許されない。

朝青龍の各界追放」を切実に望んでいる声は、多いはずなのである。それは「朝青龍がモンゴル人(或いは外国人)の横綱だから」では、断じてない。過去にも曙や武蔵丸といったハワイの横綱や、新たに誕生したモンゴルの白鵬ら外国人で頂点を極めた力士はいたが、決してそのような差別はなかったし、今もまったくない。逆に日本人であっても、横綱の地位を極めながら素行に数々の問題があったため、事実上の廃業に追い込まれた双羽黒(北尾)の例もある。あるのは、ただ「横綱に相応しい品格と人格を備えていないという事実のみであり、日本に来て10年も経つ人間が「日本の風習を理解していなかった」では、絶対に許されないのである。

などと書いた後に「2場所連続出場停止と減俸30%(4カ月)」という、なんとも中途半端な裁定が下された。この4ヶ月間は「執行猶予」期間でもあり、期間中に何か問題を起こすような事でもあれば、今度こそは「永久追放」の厳罰で臨んでもらわなければ困る。