またしても失職だ。
地元・愛知の実家に戻り、社会人としてデビューしたのが10月だった。
幾つか渡り歩いた飲食店は、最短で半日か長くても数日、次のテレアポ営業の仕事も支店長と喧嘩の末、僅か一週間足らずでピリオドとなった。
気付けば早や一ヶ月以上が経過していたが、その間面接でトラブルを繰り返したりしているうちに、いつの間にやら師走を迎えていたのである。
過去の例から、すっかりオバタリアンと飲食店に対してはトラウマを抱えていただけに、営業と販売を除外しての転職活動は簡単なものではない。
腕に特別な技術があるわけでなく、専門的な資格もないとなれば尚更なのはわかりきっていたが、かなり名の通った大学とはいえ専攻していた「哲学」というのが実社会では最も金儲けには結びつきそうもない、という点は痛感していた。
数年ぶりに住む事になった実家では、母屋とは離れた個人部屋を与えられていたから親の目は殆ど届く事がないとはいえ、それでも風呂と食事の時は母屋へ顔を出さなくてはならない。
できれば、風呂も食事も外で済ませてしまいたいところだったが、そんな金銭的な余裕があるわけがない。
何はともあれ煩いオヤジの追求から逃れるため、毎日朝9時前には家を出て夜の8時過ぎに帰宅するよう心がけ、外では就職雑誌を読み漁る日々が続いた。
とはいえ、そうそう毎日面接があるわけでなく、余った時間は喫茶店などで無為に過ごすパターンへと流れてしまい、無駄な金ばかりを費消するという悪循環である。
ただし、当時は贅沢さえ言わなければ、胡散臭いスキマ産業のような求人需要はかなりあった。
まだ20歳そこそこと若く、未知の方向性は溢れていたという事情もあった。
(結局、芸のない身では、販売業しかないのかな・・・)
と妥協しそうな気分で、その日も新聞の求人広告を眺めていると
<大手百貨店で、名入れサービスをしませんか?>
という広告が目に入り
(デパートで名入れって・・・一体、なんだ?)
と興味を惹かれ応募すると、早速面接のお誘いが掛かった。
訪れた先は、普通の民家の一室を事務所に当てているような木造家屋で、40前後くらいの社長を名乗る人物が現れた。
「やって貰いたいのは、Mデパートで名入れの仕事だ・・・」
「名入れってのは、なんすか?」
「財布とかのものに、ネームを入れる事さ・・・アイディア商売だな・・・やってみる気はあるかな?」
「アイディア商売か・・・」
(接客業ではあるがモノを売るような商売ではないから、こちらから積極的にアプローチする必要がないのは魅力かも・・・)
などと皮算用をしていると、社長と同じくらいの40絡みの年配のメガネの人物がひょっこりと現れると、こちらを一瞥してから社長に
「彼は・・・?」
と尋ねた。
「応募して来た人だよ」
「イケメンじゃん・・・いいねー」
と関係のない(?)メガネのオジサンの方が、すっかりその気になっていた。
しかしながら、社長の方は感情が顔に表れ難いタイプらしく、何を考えているのかサッパリ読み取れなかった。
「うむ・・・問題はメガネだな・・・」
学生時代に洒落っ気で度付きサングラスを愛用していた名残りで、調光グラスのメガネを掛けていたのだが、それが気になるらしい。
「調光グラスなので、今は外から入ったばかりでまだ色が残ってますが、そのうち消えますが・・・」
「いや、もうかなり時間が経ったから、色は抜けたんだけどね・・・元々の色が濃いんだよなー」
(確かに、調光グラスでは最も色の濃い物を使っているとはいえ、サングラスに比べれば殆ど透明だというのに、随分と細かい事を言うものだ・・・)
と思っていると
「オレは何とも思わんが、なにせ相手デパートだからなー。
こういう細かい事に、かなり煩くてな・・・」
と顔を顰めた。
「新しいメガネを作る予定なんてないよな?」
「そもそも、そんな余裕がないですし・・・」
「メガネくらい、社長が買ってやればいいじゃん・・・儲かってるんだし、しれてるだろ」
「バカ言え・・・」
「ちぇ、ケチンボ」
どうやらこの陽気なメガネの人物は、社長の取引関係の相手で長い付き合いが読み取れるような親しさだった。
「メガネがないと、まったく見えないのかな?」
「まったくってことはないけど、かなり支障があります・・・」
「それじゃダメか・・・メガネを取ると、また一段とイケメンな気がするが・・・」
と、メガネのオジサンが余計な事を言った。
「ちょっと外してくれないかな?」
「なんで?
外す必要はないと思いますが・・・」
「うむ・・・まあ、そうか・・・メガネが普通のなら、文句なくこの場で採用と言えるんだがな・・・親にも買って貰えない?」
「それくらいは、自分で稼げと言われるでしょう・・・」
「だろうな・・・問題は、デパートが何と言うかだが・・・」
(取り越し苦労じゃないのか?
本当にそんな面倒なら、この際辞退するか・・・)
などと考えていると
「案外、問題にされないかもしれないし、取り敢えず行ってみれば?」
とメガネの陽気なオジサンが、こちらの思っていることを口にした。
「それしかないか・・・何かクレームが出たら出たで、その時にまた対策を考える事にしよう・・・」
慎重な性格で真面目一方と言うタイプの社長と対照的に、陽気で気さくな感じなのがメガネのオジサンの方だけに
(メガネの方が、社長ならよかったのに・・・)
と一瞬、考えた。
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