その日は、ライトアップされた枝垂桜を堪能して京都に1泊し、翌日は一路嵐山へと向かう。
<嵐山は京都府京都市の観光地。
国の史跡および名勝に指定されている。
本来、地名としては西京区(桂川の右岸)を指し、左岸は右京区嵯峨であるが、観光案内等では嵯峨地区を含めた渡月橋周辺全域を一まとめに「嵐山」と称する事が多い。
嵐山は桜や紅葉の名所である。
京都市街の西に位置し、平安時代に貴族の別荘地となって以来、京都の代表的な観光地となっている。
嵐山の中心部を流れる桂川にかかる渡月橋は嵐山の象徴になっている。
なお渡月橋を挟んで上流が大堰(おおい)川で、下流から桂川となる。
JR山陰線の北側には「嵯峨野」と呼ばれる観光地が広がっている。
元来は寺社めぐりや紅葉などの景観が観光の主体であった。
1980年代には、渡月橋の北側を中心にタレントショップが急増し、修学旅行生など若い観光客で賑わう一方で、雰囲気が破壊されるとの批判もある。
バブル崩壊後は、こうしたタレントショップは減少傾向にある。
1990年代以降、小規模な博物館の開館が相次いでいる。
また、2004年には温泉が掘削された(嵐山温泉)
観光シーズンになると渋滞が激しく道路交通が麻痺してしまうため、乗用車の乗り入れ規制や、郊外に格安または無料の駐車場を整備し、そこからバスで運ぶパーク・アンド・ライドの実験が行われた。
大堰川の上流の保津川の流域では林業が盛んであり、伐採した木材を京都の街に運ぶために川が使われた。
嵐山はその終着点であり、現在では同じコースを遊覧船で下る「保津川下り」が亀岡市から体験できる>
嵐山では竹林を通り、まず目的の天龍寺を訪ねる。
<天龍寺は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。
寺号は、詳しくは「天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)」と称する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。
足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山の第一位とされてきた。
「古都京都の文化財」の一部として、世界遺産に登録されている。
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ、786-850)が開いた檀林寺があった。
その後、約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242-1246)と、その皇子である亀山天皇(在位1259-1274)は離宮を営み「亀山殿」と称した。
「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。
天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(後醍醐天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。
尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。
後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。
足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗を翻した人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。
いわば「敵」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。
寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。
寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。
落慶供養は、後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。
後嵯峨天皇陵天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約33万平方メートル、現在の京福電鉄帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅辺りにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。
しかし、その後の度々の火災により、創建当時の建物は悉く失われた。
中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。
応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、蛤御門の変(禁門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。
なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)に、僅かに当初の面影がうかがえる。
方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。
境内東端に勅使門、中門があり、参道は西へ伸びている。
これは、通常の禅宗寺院が原則として南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっている。
参道両側に塔頭(たっちゅう、山内寺院)が並び、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏(くり)、僧堂、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。
●天龍寺の文化財
勅使門-四脚門
境内寺内最古の建物で、桃山時代頃の様式をもつ。
法堂(はっとう)
禅寺の中心堂宇としては珍しい、寄棟造単層の建物で、1900年(明治33年)の再建。
本尊釈迦三尊像を安置する。
天井画の雲龍図は明治時代 鈴木松年によって描かれたが、傷みが酷かった為、1997年(平成9年)加山又造により八方睨みの龍の雲龍図が描かれた>
※Wikipedia引用
※Wikipedia引用
この時は4月の半ば過ぎという、桜の花見と特別拝観で混雑するGWに挟まれた中途半端な時期だっただけに、観光客も意外に多くはなく、春の陽光を浴びて広い庭内をノンビリ散策する事が出来た。
庭内を一巡りすると、ここでもちょうど満開の枝垂桜が嵐山を背景に、青空に映えていた。
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