<清水寺は、京都府京都市東山区清水にある寺院で、山号を音羽山と称する。
本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。
もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。
西国三十三箇所観音霊場の第16番札所である。
清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史を持つ京都では数少ない寺院の1つである。
また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。
古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されている。
清水寺の創建については『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見える他『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦十七年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。
これらによれば、草創縁起は大略次のとおりである。
宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。
金色の水流を見出した賢心がその源を辿って行くと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。
年齢200歳になるという行叡居士は、賢心に
「私はあなたが来るのを長年待っていた。
自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」
と言い残し、去っていった。
行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。
これが清水寺の始まりであるという。
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年‐811年)は、修行中の賢心に出会った。
田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ観音に帰依して観音像を祀るため、自邸を本堂として寄進したという。
後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。
延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったという。
以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
延暦24年(805年)には、太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。
『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。
清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。
平安時代以来、長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにも度々巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。
現在の本堂は上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものである。
他の諸堂も多くは、この前後に再建されている。
東大路通から清水寺までの約1.2キロの坂道は清水坂と称され、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。
境内は標高242メートルの清水山(音羽山)中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。
入口の仁王門を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、経堂、田村堂(開山堂)、朝倉堂などを経て本堂に至る。
本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建つ。
本堂東側の石段を下りた先には、寺名の由来でもある名水が3本の筧(かけい)から流れ落ちており「音羽の滝」と呼ばれている。
音羽の滝から、さらに南へ進むと「錦雲渓」と呼ばれる谷を越えた先に塔頭寺院の泰産寺があり「子安塔」と呼ばれる小さな三重塔がある。
このほか、本堂の北に鎮守社の地主神社(じしゅじんじゃ)があり、さらに北には清水寺本坊の成就院がある。
本堂(国宝)
徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されたもの。
「清水の舞台」とも呼ばれる。
屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。
建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大な柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている(釘は使われていない)。
このような構造を「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」と言い、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという『法華経』「観世音菩薩普門品」(観音経)の所説に基づくものである。
なお、同じく観音霊場である長谷寺や石山寺の本堂も、同様の「懸造」である。
内々陣には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、向かって右の厨子には毘沙門天立像、左の厨子には地蔵菩薩立像をそれぞれ安置する。
三尊とも秘仏である。
本尊厨子の左右には、千手観音の眷属である二十八部衆像を安置し、内々陣左右端には風神・雷神像が安置される。
思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺の古文書調査によれば、実際に飛び降りた人が1694年から1864年の間に234件に上り、生存率は85.4パーセントであった。
明治5年(1872年)、政府が飛び降り禁止令を出し、柵を張るなど対策を施したことで(これは写真に残っている)、下火になったという>
※Wikipedia引用
※Wikipedia引用
八坂神社や祇園辺りにも舞妓はん、或いは芸妓はんと見られる派手な着物の艶やかな姿が珍しくないのは、改めて観光客として見る目には新鮮に映った。
清水寺の舞台に上がり展望を楽しんだ後は、境内をグルリと散策する。
有名な円山公園の枝垂桜は、ちょうど満開の見頃であった。
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