2005/07/29

ワーグナー オペラ『タンホイザー』(1)

 

18451019日、ドレスデンの宮廷歌劇場でワーグナー本人の指揮で初演された。表面的にはある程度の成功を収めたものであったが、優秀な歌手を揃えた上演であったにもかかわらず、聴衆の反応は冷淡であった。

 

『リエンツィ』のような作品を期待していた大半の聴衆は、新作の『タンホイザー』の内容に理解ができなかったことが主な要因であった(終幕においてヴェーヌスが姿を現さない、エリーザベトの葬列が出されなかったことが挙げられる)

 

また上演2日目(1227日)には観客が半分に満たなかったが、3日目(1228日)にはそれを上回ったものの、8日間上演されたのちに打ち切られた。ただし1850年代中頃までには、ドイツ各地の歌劇場40か所で上演されている(ベルリンは185617日)

 

「パリ版」による初演は、1861313日にパリ・オペラ座で行われた。1853118日にリガで行われた公演は、本作初の海外初演である(ドレスデン版による)  18541125日にプラハ、185944日にニューヨーク(メトロポリタン歌劇場での上演は1884年)、1866113日にルーマニアのティミショアラ、187656日にロンドンでそれぞれ行われた。

 

1861年にナポレオン3世の招きによって実現したパリでの初演は、オペラ史上最も大失敗を引き起こしたものとして知られる。ワーグナーは、2年前の18599月にパリに引っ越して住んでおり、目的は『トリスタンとイゾルデ』の主役を歌える歌手を探すために転居したものだった。

 

18601月から2月にかけて、パリのイタリア座で行われた自作の演奏会を開催し『さまよえるオランダ人』序曲や『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲などを披露した。この演奏会で多くの芸術家たちから支持を集めたが、新聞などからは敵視され、加えて同地で自作のオペラを上演することを切望していたワーグナーは、この新聞批評によって望みが失われたことにひどく落胆したといわれる。

 

その最中、ナポレオン3世から『タンホイザー』をオペラ座で上演するように勅命が降り、この思いもしない事態にワーグナーは、それに応えるべく矢継ぎ早にオペラの添削に着手した。この勅命が下りた理由は、オーストリア大使のパウリーネ・メッテルニヒ伯爵夫人によるものとされている。夫人はワーグナーの崇拝者であり、パリ上演のために口添えをしたことが下りたことに繋がったといわれる。ただし、それは「外交戦略」の一つとしてであった。

 

「パリ版」の改訂を終えたのは18611月のことで、上演のためのリハーサルは164回にわたって行われたと伝えられる。313日、ナポレオン3世の臨席のもと初演を迎えた。だがオペラ座の予約観劇者で会員でもあるジョッキークラブの若い貴族の面々は、かつてバレエの挿入を要求した際に拒否されたことに対するワーグナーの態度に激怒し、公演を妨害しようと企み大きな嘲笑や怒号を行った。これにより、初日の公演は収拾がつかない状態に至った。

 

2回目(315日)と3回目(325日)から徐々にエスカレートしていき、ジョッキークラブの貴族たちは仲間を呼び寄せて、ラッパや狩笛、鞭などを持ち出して妨害工作を行い、喧騒をきわめた末、公演が続行できない事態にまで発展した。この事態を知ったワーグナーは支配人に書簡で、自らの取った態度と習慣に従わなかったことの非を認め『タンホイザー』の公演を撤回するに至った。

出典Wikipedia

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