2005/07/22

茨田=まった? まんだ? まむた?


 大阪にはおもろい地名が沢山ありますが、この手の話題になると「十三」、「喜連瓜破」、「放出」などとともに、よく出てくるのが「茨田大宮」です。

字を見る限りは「どこがおもろいの?」という感じでしょうが、これが「まったおおみや」と読むと知れば、誰しもが「何で?」と首を傾げるに違いない。

鶴見区のWebページでは

《茨田大宮(まったおおみや)は、字宮の前に鎮座した産土社の大神社の社名に由来する。大神社は、大正3811日に大字浜字赤曾根の古宮神社に合祀されたが、昭和12年に旧地に還坐し俗に大宮神社として、町域の人達に親しまれていることによる。

 「茨田の地名については『日本書紀』を出典とする古い地名として、当地付近が該当することに由来する。古来の茨田(万牟多)湿地や仁徳天皇の代に構築されたとする茨田堤にちなむ》

とあります。

ところが、このメジャーな「まった」という読みの他に「まんだ」或いは「まむた」という読みがあるというからややこしい。

《茨田は「まむた」と読むらしい。和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)という古代の百料事典には、萬牟多と読みがふってある。播磨風土記(はりまふどき)には、河内の国茨田郡に枚方の里があった事、そこに漢人が居住していた事が出てくる。

また日本書紀には、有名な茨田の堤と茨田の屯倉(みやけ)についての記事があるほか、茨田池に関しても述べるなど茨田の名が古くからあった事を物語っている。茨田池は人工の池ではなく自然の滞水によるものであるらしいが、それは現在の寝屋川市南部以南に広がっていた、元の河内湖であった可能性が強い。「まむた」は、湿池帯を指す言葉ともいわれている。こうした観点に立つと、茨田と総称された地域はのちの茨田郡の範囲を超えて、かなり広大なものであったことが考えられる。
※地域文化誌「まんだ」より引用

≪私たちが淀川と生駒山地北部に画されたところの、ほぼ現今の北河内地方を代表する初めての地域文化誌に茨田の題名を当てたのは、それが日本古代史上の要地であったこの地に、最もふさわしいと考えたからである》

 《日本書紀仁徳11年条に「北河(現淀川)の水害を防ぐため築かせた」とある堤。日本書記によれば仁徳天皇の時代、上町台地にあった宮殿の高殿から大雨の後の河内の国を眺めると、河川から溢れ出た水のために田畑も家も水浸しだった。そこで、河内平野の低地に溢れるこの水を西ノ海(大阪湾)へ流すために、宮殿の北方にあたる台地の先端付近を掘ったのが「堀江」である。

また、しばしば氾濫を起こしていた北の河(淀川)洪水を防ぐため「茨田堤」を築いたという。古代の淀川の流路は、本流と古川に分かれ河幅も広く河内湖に注いでいた。上流の諸河川、特に木津川は土砂を大量に流し下流域に砂州を発達させた。

日本書記には、河の水が横に広がって流れ長雨になると、すぐに氾濫するようすが記されている。茨田堤は古川に沿って築かれ、遺跡は寝屋川、門真に残っている》

●ポリネシア語による解釈
《茨田郡は、現在の枚方市の南部から寝屋川市あたりの地域で、古代にはしばしば淀川の氾濫によって大きな被害を蒙っていた地域です。

「日本書紀」仁徳紀1110月の条には、淀川の氾濫による被害を防ぐため、現在の枚方市から寝屋川市あたりにかけての淀川左岸に、茨田堤が築かれたとあります。

また『行基年譜』の天平13741)年には「茨田堤樋 茨田郡茨田里」の記事があり、土木技術をもった秦人たちによって造られたと考えられています。この堤の完成によって淀川左岸の開発が可能となり、その後、大和盆地での溜池潅漑技術をもとに茨田池がつくられ、その水利によって茨田屯倉(みやけ)が経営されたものと考えられます。この郡名は『和名抄』は「万牟多」と訓じています。この「まむた」は

(1)
「ウマ(ウバ(崖、自然堤防)の転)」から
(2)
「マ(美称)・ウタ(湿地)」の意

とする説があります。

この「まむた」は、マオリ語の「マヌ・タ」、MANU-TA(manu=float,overflow;ta=dash,overcome)、「洪水が襲う(大きな被害を蒙る地域)」

の転訛と解します。

なにやらややこしいですが、どっちゃにしろ読めん事にはかわりないようでんな (*´m`)

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