2004/11/18

バルトーク ピアノ協奏曲第1番(第2楽章)



 バルトークの生きた時代は、あのヒトラー率いるナチスの時代であり、芸術家にとってはこれほど生き難い時代はなかった事だろう。ヒトラーから目の敵にされたのはメンデルスゾーン、マーラー、マイアベーアの「3M」ばかりでなく、シェーンベルク、ヒンデミットといったユダヤ系、さらにはストラヴィンスキーや、バルトークといったユダヤ人でもない人たちまでが本国を追われるようにして、アメリカへの亡命を余儀なくされた。

元々、亡命を何度も繰り返して来た、稀代の世渡り上手の渡り鳥(別名はカメレオン)のようなストラヴィンスキーはともかくとして、生粋のハンガリー人であるバルトークがなぜ亡命せざるを得なかったのかといえば、それは偏にバルトークの職人気質ともいうべき、融通の利かない性格に起因するところが大きい。自由な創作活動を求めて愛する祖国を離れるという、苦渋の決断をしたのであった。

当時のアメリカは、こうした本国を追われたユダヤ系の芸術家や自由な活動を求めて自ら亡命を選んだ芸術家たちで活況を呈し、またアメリカの方でもこうした才能には寛大なお国柄であるところから、総てはメデタシメデタシとなるはずだったが、一人偏屈者で気難し屋のバルトークのみが社交下手もあって仕事からあぶれ、すっかり落ち目の三度傘といった境遇に落ちぶれてしまった

見かねた友人たちが再三手を差し伸べようとしたが、頑固一徹のバルトークだけに善意とはいえ他人の施しを甘んじて受ける事を潔しとせず、そうしたストレスが起因となってか、まもなく白血病で倒れてしまう。担ぎこまれた病院には、偶々バルトークを良く知っている医師がいて

「これが本当に、あのバルトーク先生なのか・・・」

と目を疑ったほど、ハンガリーで活躍していた頃とは別人のように憔悴しきった元巨匠に、ようやくの事で作曲依頼が来た(実は件の友人が見るに見かね、出版社に手を回して仕組んだヤラセが真相だった!)

依頼者を始め誰しもが、今や生きる屍と化したバルトークを見て最早、作曲をする体力も残っていないだろうと決め付けていたとて無理もない。

が、偉大な芸術家の執念や恐るべし。蝋燭の最後の灯火のような命の焔を燃やして、見事に病床で執念の力作を書き上げてしまったのだ。その『管弦楽のための協奏曲』には、バルトーク自身もよほどの手応えがあったのか、医師の制止を振り切り初演に立ち会った。そして熱狂的な大成功を見届けると、それから一年も経たぬうちに安堵の永眠につかれたのである。

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