2004/11/05

ビゼー『アルルの女』第1組曲(前奏曲&メヌエット)

 ビゼーと言えば『カルメン』だが、それと同時に「劇音楽の天才」でもある。

1.前奏曲


 第1組曲は、あのなんともドラマティックなオープニングを告げる厳かな感じの前奏曲から始まる。

 この曲は、劇音楽No.1 序曲から3部構成。第1部の主旋律は、フランス(プロヴァンス)民謡「3人の王の行列」に基づく。第2部のアルト・サクソフォーンによる旋律は、主人公フレデリの知的障害の弟を表す動機によっている。第3部は、フレデリの恋の悩みを表している》
出典Wikipedia

2.メヌエット


『アルルの女』で「メヌエット」と言えば、第2組曲の第3曲があまりにも有名だが、第1組曲の「メヌエット」も実にチャーミングな魅力に溢れた逸品である。

ビゼーは、183810月にパリで生まれた。

声楽教師であった父は息子の音楽的才能を認め、幼い頃から音楽教育を施し、1848年にわずか9才にしてパリ国立音楽院に入学する。学校での成績はきわめて優秀で17才で交響曲ハ長調を作曲、1857年にはローマ大賞も受賞する。

同年ローマに向かった彼は22才までイタリアに留学し、帰国後はオペラ作家としての成功を目指す。しかし望んだような成功は得られず、ローマ大賞による年金も失われたため、出版社からの注文による歌曲の作曲や編曲、音楽教師の仕事で暮らしをたてざるを得なくなる。その過労と将来への不安などから酒に溺れ、健康を損なうようになる。

1867年には「美しきパースの娘」を完成させ、出版社からはまとまった収入を得るが聴衆の評判とはならなかった。その後も、いくつかのオペラを作曲するが「アルルの女」につけた組曲が関心を呼んだ程度だった。1873年からはメリメの小説「カルメン」のオペラ化に着手し、75年にパリで初演されるが聴衆の評判は芳しくなく、その3ヶ月後の18756月、失意の中でパリ近郊のブジヴァルで亡くなる。



 《この作品は、アルフォンス・ドーテの戯曲「アルルの女」の劇附随音楽として作曲されました。戯曲の方は大成功を収め、アルフォンス・ドーテの名声を不動のものにしたそうです。

 残念ながらフランス文学には至って暗いので、アルフォンス・ドーテという名を聞かされても全くピントこないのですが、そちらの世界ではなかなかに有名な人らしいです。

 ただ、ビゼーが必死の思いで作曲した方の音楽は、あまり評判が良くなかったという話が伝わっています。

 理由ははっきり分からないのですが、どうも「アルルの女」を上演した劇場のオーケストラが小編成で、技術的にも問題があったのではないかと推測されています。

 しかし、作曲をしたビゼーの方はこの作品に絶対の自信を持っていたようで、全27曲の中からお気に入りの4曲を選んで、演奏会用の組曲に仕立て直しました。

 これが『アルルの女』の第1組曲です。

 劇判音楽の方はいびつな小編成のオケを前提としていましたが、組曲の方は通常の二菅編成のオケを前提として編曲がなされています。

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