2004/11/07

蝉丸様謹製? 滋賀のオウサカ

 子供の頃、正月に百人一首をした時の話です。末っ子のワタクシは当時まだ小学校低学年の頃なので、詠まれている歌の意味などはサッパリわからずにいつも悔しい思いをしていました。が、何度か回を重ねるうちに妙な事に、禿頭の独特の風貌をしたお坊さんのイラストと「蝉丸法師」という印象深い名前が神童小学生たる頭に強烈なアピールを残し、必然的に

『これやこのゆくも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂関』

という、法師の詠んだ歌を覚えてしまいました。以来、いかにボロ負けをしようとも、この蝉丸法師の歌だけは『これやこの・・・』と訊いただけで、条件反射のように反応をして

「オイオイ、おまえはそれだけ狙ってるのか・・・」

と、一族を呆れさせたものでした。

この『逢坂関(あふさかのせき)』は、てっきり「大阪の関」だとずっと思い込んでいたもので、実は滋賀県の地名というのを知ったのは、ずっと後になってからのことです。となると、当然の如くに

「滋賀県なのに、何故『おうさか(あふさか)』なのか?」

という疑問が、またしてもムクムクとして頭を擡げてくる事になります。

《おおさかのせき(旧かな遣いで「あふさか」)と呼ぶが、大阪とは関係ない。  京都と滋賀の境、逢坂山にある。逢坂関は当時、山城国と近江国の境であり平安時代から江戸時代の東海道も同じところを通り、現在でも国道1号線上にある。 当時はここで畿内が終わり、ここから先は「東国」となる。ここには古代より関所が設けられ、その名(あふさか=会う・逢う・相う)もあって、人々の出会いと別れの象徴として数々の和歌にも詠まれている。

代表的なのは、百人一首にも収められている蝉丸法師の「これやこのゆくも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂関」で、特に有名。蝉丸は源氏物語成立の100年前、宇多天皇の御代の人と言われているので、話の流れから見ても『関屋』の話は、この蝉丸の和歌を踏まえている可能性がある。物語の中で空蝉は京に帰参後、源氏に宛てて逢坂の関を歌枕に、次のような歌を送っている。

『行くと来とせき止めがたき涙をや 絶えぬ清水と人は見るらむ』
『逢坂の関やいかなる関なれば しげき嘆きの仲を分くらむ夢のやうになむ』

光源氏は「東国」では、国境の逢坂関を少しだけ超えた石山寺まで「西国」では国境の須磨関を少し越えただけの明石まで行っている。両方の関とも、寂しい場所としてとらえられているのが興味深い》

《ちなみに、同時代の清少納言も

『よをこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(百人一首に収録)

と、逢坂関を詠んでいる》

《相坂関とも書く。東海道の道筋に当たる逢坂関は古代から交通の要所とされ、すでに14年(795)に関所の前身ともいえる施設が置かれ、その後平安時代の中頃には不破・鈴鹿と並ぶ三関の一つとして、朝廷に重視されていた。現在大谷町の逢坂山検問所前に、関跡碑が建つ》
出典 http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/103.html

《天下三関(鈴鹿・不破・逢坂)の一つで、反乱を起こした押熊王を追って武内宿禰が兵を動員させて、逢坂で両軍が出遭ったことに由来する(日本書紀)。清少納言も、逢坂山を詠んでいる。

『夜をこめて 鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(百人一首の第六十二首)
夜も明けていないのに、鶏の鳴き真似をして関所を開かせるのですか。函谷関なら騙せても、逢坂の関は騙されませんよ。まして私の関となると・・・清少納言に気のあった藤原行成が、彼女を訪ねた翌朝に

「もっと居たいのだが、鶏が鳴くので帰らなくては・・・」

との手紙の返礼の詩である。

一条天皇の皇后「定子」に仕える清少納言は、ライバルの「彰子」に使える紫式部らと才媛を競った。

豊臣秀吉が大津城を築き、琵琶湖水運の集積地として大津が繁栄すると、逢坂越は人と物資、また情報の流通ルートとして脚光を浴びます。かつては多くの常夜灯が旅人の足元を照らしていたが、今は峠と蝉丸神社だけに残る。大津周辺は街道一の繁栄を極め、その豊かな財力によって大津祭に見られるように、曳山巡行や今に残る町家などの文化が栄えた。逢坂関付近では大津絵やみすや針、大津算盤を売る店が軒を連ねていたという》
出典 http://www.geocities.jp/sisekiguide/

ポリネシア語による解釈
逢坂山325メートル)は相坂山とも書き、大津市西部と京都市山科区の境にある山で、古来畿内の北東を限る交通の要衝であったため、逢坂関が置かれました(現大津市逢坂1丁目付近に比定されますが、不詳です)。山の南北に峠道が通じ、南は旧東海道・東山道で逢坂関(大関)越え、北は北陸道で小関越えといいました。

この「おうさか」は、「アフ(逢う)・サカ(坂)」とされますが、これはマオリ語の「アフ・タカ」、AHU-TAKA(ahu=heap,heap up;taka=turn on a pivot)、「(行先によって南北いずれかに)方向を転換して登る高所(の山)」の転訛と解します。
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

0 件のコメント:

コメントを投稿