バルトークは、それまで3年の間、『中国の不思議な役人』のオーケストレーションを除けばほとんど作曲をしておらず、ピアニストとしての演奏活動を中心にしていた。その沈黙を幾つかのピアノ曲によって破ったのであるが、そのひとつにこのピアノ協奏曲があった。
バルトーク本人はこの曲を書いたきっかけとして、まだハンガリー民謡の研究を始める以前の1904年に書いた『ピアノとオーケストラのためのラプソディ』以外、コンサートピアニスト兼作曲家である自分が披露できる自作の協奏的作品がなかったことを挙げている。
バルトークの新古典主義時代の幕開けを告げる作品であり、バロック音楽への関心が増してから着手された。このことは、対位法の多用にも表れている。
しかしながら、バルトークに特有の苛烈さも依然として残されている。バルトークの他の作品に同じく本作でも、ピアノが打楽器的に扱われている。
一方、管楽器を主体とする管弦楽法には、ストラヴィンスキーからの影響が感知される。バルトークは、本作について次のように記した。
「私の最初の協奏曲は、作風に難しいところはありますけれども、上出来だったと思います。難点といえば、たぶんオーケストラにとっても聴き手にとっても、非常に難しいというところでしょう」
第1楽章で導入部の後ピアノに登場するオスティナート主題が、さまざまに変形・展開されて作品全体を支配している(オスティナート主題そのものも、導入部の太鼓連打の変形と見なしうる)
第1楽章はソナタ形式によっているが、古典的な協奏ソナタ形式は採用せず、普通のソナタ形式を用いている。
出典Wikipedia
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