名古屋は個人的にははかなり馴染み深い土地で、それだけに事改めてそのルーツを考えた事もありませんでしたが、よくよく考えてみれば「名古屋」という地名の由来となると、何かの本で読んだ《「なごやかな谷」が語源である・・・云々》という地形に関する説以外はサッパリ記憶にない。そこで改めて調べてみる事にしました。
《名古屋は尾張一族の拠点として栄えたが、古くは日本武尊が東征の折に度々立ち寄った所である。この地に宮簀媛(みやずひめ)という美女がいて日本武尊を接待したことから、東征を繰り返していた日本武尊は剣を放棄したという。それほどに「心が和やかになる家屋」ということで「和屋(なごや)」という地名を授けられたのが由来と言う。因みに放棄された剣は、熱田神宮に保存されている草薙剣と言われる》
「草薙剣(クサナギノツルギ)」とは言うまでもなく、伊勢神宮にある「八咫鏡(ヤタノカガミ)」及び「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」とともに「三種の神器」に数え上げられる一つです。
《愛知県の南西端、伊勢湾の奥で背後に濃尾平野を控えた愛知県の県庁所在地である。元々、市域には先史時代の遺跡や貝塚があり、古くから人が住んでいることがわかるが「なごや」の名が文書上に初めて見られるのは12世紀の「那古屋荘」である。室町時代・戦国時代、尾張(現在の愛知県一帯)の中心は清洲であった。関ヶ原の戦いで徳川家康が勝つと、1610年(慶長十五年)西国大名に対する防衛拠点として、水害の恐れのある清洲ではなく台地上にある名護屋に築城を始めた。2年後に城は完成し、旧城下町の清洲から新城下町へ武士・町人を移転させた。その後、御三家の尾張徳川家の下で名護屋は発展し、特に七代目の藩主宗春の時代には「芸どころ」としての名護屋の発展に大いに努めた。
明治維新後、一時衰えるが1878年(明治11年)独立した行政区である「名古屋区」に、89年には市制が施行され、また1886年(明治十九年)の東海道線開通、1907年(明治四十年)の名古屋港開港で軽工業を中心に近代工業都市として発展した》
《古来、「那古野」、「那古屋」、「名護屋」、「浪越」などと表されていたが、明治3年に名古屋藩の監察により「名古屋」と書くように布達された》
●ポリネシア語による解釈
《名古屋市は首都圏、近畿圏に次ぐ中京圏の中心の愛知県の県庁所在市で、市名は中世の那古屋(なごや)荘の荘園名により「台地や入り江のなごやかな土地」 から、山城に対して麓に置かれた集落を指す「根小屋(ねごや)」の転などの説があります。「なごや」は、熱田(あつた)の別名「蓬莱(ほうらい)島」の左にあることから、別名「蓬左(ほうさ)」と呼ばれたとも言われます。
この「なごや」は「(ン)ガ(ン)ガウ・イア」、NGANGAU-IA(ngangau=disturbance,noise,quarrel;ia=current,indeed)、「川が・障壁になっている(場所。そこに築かれた城)」(「(ン)ガ(ン)ガウ」の最初のNG音がN音に、NG音がG音に、AU音がO音に変化して「ナゴ」となった)の転訛と解します。
※出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
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