本人が「若い頃の私にとって、美の理想はベートーヴェンだった」と回想しているように、ドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発したが、ハンガリー民族やハンガリー王国内の少数民族の民謡を始めとした民俗音楽の収集による科学的分析から、その語法を自分のものにしていった(同様の活動を行った先人に、チェコのヤナーチェクがいる)側面と同時期の音楽の影響を受けた側面のバランスの中で作品を生み出す、という独自の道を歩んだ。
ただし、彼の楽曲はソナタ形式を活用するなど、西洋の音楽技法の発展系の上で成立しており、音楽史的には新古典主義の流れの1人と位置付けても間違いではないだろう。
出典Wikipedia
バルトークが困窮にあえいだのは、膨大な民俗音楽研究のために実際的な収入の道に時間を裂く事が出来なかったからで、決してピアノ教師(彼は超一流のピアニストでもあった)の道や、作曲家講師の仕事にありつけなかったためではなかった・・・という反論もある。
バルトークは、1940年に渡米して演奏旅行をしているが、それは「アメリカ移住のための条件を探るものであったらしい」という説もある。その根拠として、演奏と同時に各地で民俗音楽の講演をしている事も見逃せない、と言われている。
盟友コダーイとともに、偉大な故国の先達であったリストの残したハンガリー農民たちの民謡研究をライフワークとしていたバルトークであり、ハーバード大学に存する2600曲のスラヴ音楽の録音を研究するため、彼をコロンビア大学の研究員に任ずる旨通知され、肚は決まった。この間の多忙さが、氏から作品を創作する時間を奪ったのだった。
以後、アメリカに渡ったバルトークは経済的、そして肉体的な苦境(白血病)に陥り他界した。夢を見てアメリカに渡った家族たちも、金策に目もくれず
「役に立たない、民俗音楽の分類・研究に没頭する」バルトークに愛想を尽かし、別居状態となった。
第二次世界大戦の戦禍に関係ない「豊かな国」であるアメリカには、敵国人でない限り「アメリカン・ドリーム」は存在した。バルトークが、そうしたものにも敢然と背を向け超然としていたのも、生まれついての社交下手のせいもあるだろうが、そこには余人の窺い知れない芸術家としての強い矜持があった事であろう。かくして、知り合いの作曲家や音楽家が援助の手を差し伸べる程度では、火の車状況であった彼らを救うのには、あまりにも微力過ぎたのである。
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