「PKIの事は、ボチボチと憶えていくとして・・・まあ、半年だな。三ヶ月で最低限の知識を身につけて、半年後には半分くらいは理解しないとダメだな・・・オレもそのくらいだったし、みんなそんな感じだ。ちなみにオレもPKIに関しては、ここへ来るまではまったくの素人だったからね。そこのキャビネット一杯にギッシリと入っている、N社のバインダーに閉じられた資料を全部読んだら大したもんだな。あれを全部読んだのは、今のメンバーではオレと(責任者の)Sさんくらいだろう・・・あの内容は、訊いた事のない専門用語と公文書特有の日本語の言い回しだから、慣れない人があれを三ヶ月で読みこなそうと思ったら、間違いなく発狂するだろうな。オレも、発狂しそうになったからね・・・」
と、ニタニタと笑った。
「まあ、あんなのは直ぐに憶えられるはずがないから、一年くらい掛けて徐々に憶えるとして、喫緊の課題はインフラ周りだよな。なにせ、にゃべさんは来月からオレの代わりなんだから、夜中や休日のトラブル全部に一人で対応して、解決に導いていかなきゃならないんだぞー。オレがこれまで、独りでそうしてきたようにね・・・」
現場でのトラブル時には、24時間体制のシステム監視員から緊急連絡が入る事になっているが「緊急時連絡優先順位」というのがあり、M氏はずっと「第一優先連絡先」になっていたという事だった。
「監視には『緊急時連絡優先順位』というのがあってな・・・順番に名前が書いてあるんだ。今はオレが一番だけど来月からはオレの名前が消えて、1位のところににゃべさんの名前が書かれる事になるんだな。そうなると夜中や休日にも関わりなく、のべつまくなしにヘンな電話が掛かってくる事になるんだ・・・電話に出ないと一分置きに繋がるまで、何度でも掛かってくるから絶対に逃げられないんだぞー・・・さあにゃべさん、どうする?」
などと脅し文句を並べては、ニタニタと悦んでいた。
「どうするって・・・そりゃ、呼ばれたら来るしかないけど・・・しかし、最初から入ったばかりの新参者が優先順位1位というのは、おかしな話じゃないのかと」
「甘い甘い・・・実に何と言うか甘いんだよなー、認識が。オレの代わりという事は、にゃべさんが優先順位1位になる事は間違いないんだな。そしてオレがそうして来たように、どんなトラブルであろうが誰の手も借りず、独力で解決に導いていかなくてはならないわけよ。まあ、来月から頑張ってくれよな。これでオレは、来月からは神奈川から1時間も掛けて深夜に駆けつけなければいかん苦役から開放されるわけだから、後は総てにゃべさんにお任せだな」
と、嫌味たっぷりにジロリとひと睨みしつつ
「ちなみに、ここは逃げようたって絶対に逃げられないシステムになっているからね・・・先にも言ったようになにせ1分、いや30秒置きに電話が掛かって来るしね。一応優先順位は付いてるが、基本的には1位の人間が出るまで何度でも掛かってくるし、まあ逃げるのは諦めた方が良いよ」
と、実に楽しげに捲くし立てるのである。
「ちなみに、トラブルで呼ばれた時は通常のルールとは違い、呼ばれた人間が「全権責任者」になるんだな・・・ケースによってはベンダーの保守員だけでなく、責任者を始め内幸町や九段にいるS省のお偉いさん・・・普段は、黒塗りの車に乗っているようなクラスの「長」の付くような相手を(その人物しか権限を持たない「秘密鍵」など、特殊な資材を用意させるために)電話で呼びつけたり、指示を出して動かす立場になるんだな・・・そういうのも来月からは総て、にゃべさんの任務になるわけさ」
「なんとも、おかしな話ですな。つまり達磨落としに例えれば、今まで一番下にいた達磨が消えたから、今度は新たに一番上に新しい達磨が乗っかるというのが普通で、古いものから順に繰り上がるだけなのでは?
それに万一、何らかの事情で電話に出ない場合もあるだろうし、そのような緊急時に出もしない相手に掛け続けるというのは実に非効率で、ただ徒にトラブル解決を滞らせるだけと思うけど・・・」
「いや、それは違うんだなー」
と一拍置いたM氏は、さも嬉しそうに笑うと
「違うんだよな。ここでの役割分担から行くと、にゃべさんはあくまでオレの交代要員だからな。そもそも、ネットワーク系に詳しい人間はここでも何人もいないから、その方面はオレのやって来た中でも特ににゃべさんに期待されるだろうな。まあ、にゃべさんがどう思うかには関係なく、ここは総て役所の論理で動いているから最近入った人間だから優先度が低いというような、一般民間企業のような考えは一切ないよ。あるのは、ただ単にオレの代わりがにゃべさんだとういう事実だけで、来月からにゃべという人はオレと同等のレベルだと皆が認識する・・・その事実だけだな」
なんとも無茶苦茶な論理であるが、確かにお役所に民間企業の論理が当てはまらないのは、これまでに経験済みでもあった。
「だからこの1ヶ月の間に、しっかりと色々な事を憶えていかないといけないんだな。1ヶ月といっても実質的にはもっと短いわけだし、そもそも憶える事が一杯あるから1ヶ月では到底無理なんだよな。だから、オレは引継ぎ期間3ヵ月は絶対必要だとN社には言ったんだけどな。しかも1ヶ月というのは、前にも言ったようにPKIの事前講習を受けて最低限の知識はあるというのが前提でのタイムテーブルだからね。まあオレの役割は、にゃべさんに色々と教えていく事だから、可能な限りは努力していくつもりだけど、今も言ったようにとても時間がないから当面、半年くらいで絶対に必要となる最低限のところだけを教えていくしかないんだな。半年も経てば、ここの中の事も大体わかってくるだろうから、それからは自分で必要と思うところを独学でやっていくしかないな・・・」
といった方針から、M氏によって作られた引継ぎスケジュールは、かなり無理な詰め込み教育となった。その間、中休みで喫煙所へ行った時なども
「ここのメンバーは、全員凄い人ばかりだからね・・・なにせにゃべさんは、PKIの知識もこれから身に付けて行こうというレベルからのスタートだから大変だぞー!」
とか
「来月からは、夜中に監視からヘンな電話が掛かってくるんだぞー、どうする?」
といった調子で、M氏の恫喝は延々と続いた。
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