※第2楽章は「葬送行進曲」とも言われる。
同じジャンルを集中的に作曲するのが、シューマンの作曲の特徴だが「室内楽の年」として知られる、1842年の9月から10月にかけての僅か数週間のうちに作曲された。妻のクララ・シューマンに献呈している。
ごく初期のピアノ四重奏曲を例外として、シューマンはそれまで室内楽作品を一曲も完成させていなかったが、突如としてこのジャンルに集中し、同年中に3曲の弦楽四重奏曲とピアノ四重奏曲を作曲している。
リストは、この曲をシューマンの家で聴いているが、全く気に入らなかったらしく
「あまりにライプツィヒ的すぎる」
と斬り捨てている。
この発言をきっかけに、シューマンはリストに対して距離を置くようになった。
出典Wikipedia
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