井の頭恩賜公園は、東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる都立公園である。1917年開園。三宝寺池(石神井公園)・善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られる井の頭池を中心とした公園である。東京都西部公園緑地事務所が管理している。
井の頭恩賜公園は武蔵野市の南東、三鷹市の北東に接する、約380,000m²に広がる公園である。
公園の中心である井の頭池は、北西方向の先が二つに分かれた細長い池の形をしており、東南方向からは井の頭池を源流としている神田川が流れている。神田川に沿って公園がしばらく続いており、並んで走る京王井の頭線の井の頭公園駅がある。また、池の西側には御殿山の雑木林があり、東京都建設局井の頭自然文化園が吉祥寺通りを挟んで存在する。雑木林の南側には玉川上水が東南方向に流れており、そのさらに南に400mトラックと三鷹の森ジブリ美術館のある西園に出る。玉川上水の下流側の脇には、小さな広場のある東園がある。
行政区分では、井の頭池、神田川、井の頭公園駅、西・東園は三鷹市であり、井の頭自然文化園と雑木林の御殿山は武蔵野市となる。しかし、井の頭池の北側はすぐ武蔵野市になり、中央線吉祥寺駅の公園口(南口)から井の頭池まで500m弱と近い。吉祥寺駅から井の頭池に行く道の脇には、若者向けの商店が立地している。井の頭公園駅からも井の頭池まで近く、こちらは小さな広場や小道を散策できる。
自然
春は桜が美しい。井の頭池の中央を渡している七井橋から見る、池に覆い被さるように迫出す桜は格別である。池の西側には梅園もあり、桜の咲く前の季節から華やかになる。梅園の北側に向かった池沿いには湧水口があるが、現在は水量が乏しくなっている。桜の開花時季には、多くの花見者が見られる。
夏は御殿山の雑木林の葉の緑の色が眩しく、木立の中の空気が清々しい。秋になると様々な樹の紅葉が綺麗であり、落ち葉の積み重なった道を歩くのも楽しい。冬になると井の頭池には、水鳥の渡り鳥が数多く飛来し、にぎやかになる。園内では、野生の蛇を見かけることもできる。
歴史
公園内の井の頭池は湧水が豊かで、園内武蔵野市側の御殿山遺跡から縄文時代の竪穴式住居遺跡も出土しているように、古くから人間の生活に不可欠な水をまかなってきた。
平安時代中期に、六孫王経基が伝教大師作の弁財天女像を安置するため、この地に建てた堂が現在、井の頭池西端の島にある弁財天の起源とされる。その後源平合戦の頃、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築された、と弁財天の縁起には伝わっている。鎌倉時代末期、元弘の乱の際に新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で焼失。その後、数百年の間放置されていたが、江戸幕府三代将軍徳川家光により再建された。
井の頭と言う名称も家光が名づけ、自ら小刀で弁財天の傍らのこぶしの木にその名を刻んだと言われており、その伝承を記した石碑が現在もその場所に建てられている。
また三鷹の地名に残るように、この一帯の武蔵野は徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場であり、家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことから、御殿山の地名が起こった。
江戸時代の始めに、神田川が改修されて神田上水が引かれると江戸市民の水がめとなり、また江戸市民の行楽地となって弁財天は信仰を集めた。弁財天境内や向かいの石段、石段を登りきった周辺などに、その当時の商人や歌舞伎役者が寄進した石灯籠、宇賀神像などが残る。なお、明和四年に寄進された石造りの鳥居もあったが、明治初年の神仏分離令の際に撤去され、その後柱石は井の頭池と神田上水の間の水門に転用された。その水門は現在使用されていないものの、池の東端付近に今も残る。弁財天への参道は、現在も史跡として整備されており、「黒門」と呼ばれる黒い鳥居もある。
井の頭池と一帯の林は、幕府御用林として保護されてきたが、明治維新後東京府が買収。1889年に宮内省(現在の宮内庁)御用林となり、1913年には帝室御料地から東京市に下賜。1917年5月1日に、恩賜公園として一般公開に至った。
スポット
園内は、神田川の水源、井の頭池が多くの面積を占めボート場がある。また池の南側を玉川上水が流れており、上水の南側の「西園」には三鷹の森ジブリ美術館が設置。吉祥寺通り(公園通り)を挟んだ西側(こちらも公園内)を含む園の西北部は井の頭自然文化園となっており、動物園、北村西望彫刻館(長崎市の平和公園にある平和祈念像の原形などを収蔵)、日本庭園などがある。公園内ではないが、玉川上水沿いの近所には山本有三記念館もある。
また、公園近辺に商店や飲食店も多く立ち並んでいる。
出典 Wikipedia
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