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≪交響曲の時代の終焉を飾った人、それがマーラーでした。と書けば、反論が返ってくるかもしれません。マーラー以後も、交響曲を書き続けた人がいるからです。たとえばシベリウス、ショスタコーヴィチ。しかし彼らの交響曲は、クラシック音楽の中心に座りつづけてきた交響曲のありようとは、どこかが違います。
シベリウスはその最後において、これ以上は切り詰めようもないほどの、単楽章の7番で最後を飾ります。ショスタコーヴィッチも、14番では歌曲集だといわれても仕方のないような形に行き着きます。 そういう意味ではハイドン、ベートーヴェンと受け継がれてきた王道としての交響曲は、恐竜のように巨大化した果てに、マーラーで滅びてしまったと言っても言い過ぎではありません。
それにしても、巨大なシンフォニーです。普通に演奏しても、90分はかかります。最終楽章だけでも30分では収まり切れません。オーケストラの構成も、巨大化の極みに達します。マーラーは、その晩年において演奏に1000人を要する第8交響曲を生み出しますが、その巨大化への傾向は、この第2番で既にはっきりとしています。特に、この最終楽章のラスト数分間に渡って繰り広げられる絢爛たる響きは、特筆ものです。
そう言えば、この絢爛たる響きに魅せられて、これ一曲だけの指揮者になった人物がいました。彼は、そのために事業を起こして成功を収め稼いだお金で指揮法を学び、プロのオーケストラを雇っては練習を重ねました。そして仕事の合間を縫っては、一曲だけの指揮者と銘打って演奏会を行いました。もちろん自分のお金でオーケストラを雇ってですが、評判が高まるにつれ時には正式に招かれることもあったようです。 CDも出して、店頭に並べられたこともありました。専門家筋では小馬鹿にしたような対応が大勢でしたが、アメリカの金持ちと言うのは粋なことをするもんだと感心したものです。まさに彼は自らの生涯をかけて、この作品を愛し続けたのです≫
第1楽章
この楽章の主題法はマーラーの殆ど全ての交響曲同様、古典的な明瞭な形を持つものではなく、個々の部分主題から成る主題群というべきものである。この楽章は興奮の爆発を描き、繰り返し向かってくる力に対する反抗と突撃を表しているとも考えられる。
マーラー自身による解説
私の第1交響曲での英雄を墓に横たえ、その生涯を曇りのない鏡で、いわば高められた位置から映すのである。同時に、この楽章は大きな問題を表明している。すなわち「いかなる目的のために汝は生まれてきたか」ということである。この解答を私は終楽章で与える。
出典Wikipedia
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