マーラーは、ブタペストの歌劇場の指揮者をしていた1888年から「第2交響曲」のスケッチに取りかかった。しかし「第1交響曲」の完成と初演のことや歌劇場の仕事があったりで、このスケッチはなかなか進捗しなかった。それに加えて、1889年はマーラーにとって悲劇な年だった。これほどに悲劇が重なったのも珍しいことだろう。
まず、2月に父親が61歳で死去した。7月には、痔の手術をした。10月には母親が52歳で死去し、マーラーは一家の最年長者になった。さらに、すぐ下の妹レオポルディーネも、この年に脳腫瘍で世を去っている。そうしたことに加え「第1交響曲」の11月の初演は、マーラーに大きな失望を齎した。
そして新たな支配人が赴任してきてからは、マーラーと支配人との間に諍いが絶えず1891年にブタペストを辞任した。それからまもなく、ハンブルク市立劇場の主席指揮者に就任した。ハンブルクでは、この地を本拠として活躍してきた病弱のハンス・フォン・ビューローから絶大な支持を受け、1892年12月からはビューローの代役も積極的に担当することとなる。
それより前の1891年9月、マーラーは書き続けてきた「第2交響曲」の第1楽章をビューローにピアノで演奏して聴かせているが、ビューローは、この曲を
「ワーグナーの「トリスタン」の響きをハイドンの交響曲に持ち込んだようなものだ」
として、好まなかった。
この曲は「第1交響曲」と比較して大規模な管弦楽を要求し、特に金管と打楽器を増加している。そして、さらに声楽(ソプラノ独唱、アルト独唱、混声合唱)も必要とする。 また、構成的にも伝統的な4楽章制ではなく、5つの楽章を持っている。このように、マーラー風の巨大さへの傾向を持った最初の作品となった。
「第1交響曲」でも認められたマーラー的な特徴、例えば素朴な叙情性、線的対立法の愛好、民謡風な旋律の使用、自然への憧れの姿勢などは、この「第2交響曲」でも十分に発揮されている。
第3楽章(マーラー自身による解説)
前の楽章の物足りないような夢から覚め、再び生活の喧噪の中に戻ると人生の絶え間ない流れが恐ろしさをもって、君たちに迫ってくることがよくある。それは、ちょうど君たちが外部の暗いところから音楽が聴き取れなくなるような距離で眺めた時の、明るく照らされた舞踏場の踊り手たちが揺れ動くのにも似ている。人生は無感覚で君たちの前に現れ、君たちが嫌悪の叫び声を上げて起きあがることのよくある悪夢にも似ている。
出典Wikipedia
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