2005/09/13

姫路


 兵庫の姫路といえば、真っ先に思い付くのが「姫路城」です。改修前の大阪城、名古屋城とともに、スケールの大きさと姿の美しさはともに「日本を代表する名城」といっても異論はないところでしょうが、特にこの姫路城の群を抜いた美しさは、お城では唯一世界遺産に登録されていることからでも明らかです。

 <およそ1万年昔の縄文時代から人が住んでいたといわれる姫路の地には、太古の昔から受け継がれた壮大なロマンが宿っています。この地が播磨の中心になったのは、大化改新の後(7世紀)に播磨国の国府が置かれ、さらに8世紀中ごろに聖武天皇の勅令で国分寺が建てられてからの事。今に伝わる広峯神社や書写山円教寺、増位山随願寺が創建されたのも同じ時代です。

そして室町時代に入ると、播磨の豪族赤松氏によって姫山に砦が築かれ、その後に秀吉が天守閣を持つ姫路城を築城。次いで姫路に入った池田輝政が、現在の名城を築き上げました>

という姫路の歴史ですが、ではこの「姫路」というロマンティックな地名の由来は、一体どこから来ているものなのでしょうか?

<「姫路」の名は、播磨国風土記に出てくる「日女道丘」から来ています。神代の昔、大汝命(おおなむちのみこと)は、その子火明命(ほあかりのみこと)があまりに乱暴者なので海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出。ところが船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまいました。

その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に「船丘」、「犬丘」、「筥(はこ)丘」、「琴丘」など14丘の名が付けられましたが、その一つ蚕子(ひめこ)の流れ着いたところが「日女道丘(ひめじおか)」で、現在姫路城のある「姫山」であるとされています。

「蚕子」は、古語で「ひめじ」と言いました。地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られます>
出典 http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle.html

ここでも、基語は「ひめじ」の音から、この「姫山」の元の姿を蘇らせたのです。蚕が作る「繭」は、ピーナッツの殻のように少し中央が凹んだ瓢箪型をしています。蚕子(ひめじ)の音は〔ひ-め-じ=ひ-みぇ-し=hi-mye-si=より確かに真ん中が本当に分かれたもの〕で、繭の形をよく表現しています。「日女道(丘)」や「姫(山)」は、この〔ひ-め-じ=ひ-みぇ-し〕の音を別の文字で記したものですから、現在「姫山」、「鷺山」と呼ばれている二つの丘は、かつては「日女道(丘)」又は「姫山」と呼ばれる一つの地名だったのでしょう。

 

播磨風土記には、他にも「船丘」、「犬丘」、「琴丘」など、その形が連想できる丘の名が残されています。秋深い頃、夕日が西に沈む直前、姫路城の白壁は少し赤みを帯びて輝きます。そして視線を広げると、繭の形の面影を残した「姫山」と「鷺山」の二つの丘も、よく整備された美しい姫路の街並を誇らしげに見下ろしています。

 

ここで、この地域の古地名である「播磨」について触れておきます。「播磨」は〔はーりーま=ふゎーりーま=hwa-ri-ma=本当に盛り上がりの多いところ〕で、濃尾平野の「尾張(盛り上がりのないところ=完全な平地)」と全く逆の、台地や丘陵の多いこの地の景観をよく伝えています。

 

ポリネシア語による解釈

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

姫路市は播磨平野中央に位置し、播磨灘に臨む海陸交通の要衝の地です。山陽道から出雲、因幡、但馬3街道が分岐しています。市の中央、姫山には「白鷺城」と呼ばれる優美な姫路城があります。

 

『播磨国風土記』は、飾磨郡伊和(いわ)里に14の丘があり、そのうちの日女道(ひめぢ)丘は、火明命を棄てようとした父神大汝命の船が火明命に打ち破られ「蚕子(ひめこ)落ちし処は、即ち日女道丘と號く」と、その由来を記しています。

 

この「ひめじ」は、マオリ語の「ヒ・メチメチ」、HI-METIMETI(hi=raise,rise;metimeti=fat)、「ふっくらとした高台」の転訛(反復語尾の「メチ」が脱落して「ヒメチ」となり、濁音化した)と解します。

 

白壁が美しい姿から「白鷺城」の異名をもつ姫路城は、平成8年世界文化遺産に指定されました。この城は江戸時代初期(17世紀初)に池田輝政が築いたもので、天守閣はもとより他では見ることができない家来や腰元の居住区や、それらをつなぐ回廊が往時のまま残されている貴重なものです。姫路の地名は、この姫路城が築かれた丘の名「姫山」の古事に由来しています。

 

播磨風土記には「父大己貴命(おおなむちのみこと) の仕打ちに怒って、子火明命(ほあかりのみこと)が難破させた船から蚕子(繭のこと、古語で「ひめじ」という)が流れ着いたところを日女道(ひめじ)丘と呼ぶようになった」と記述されており、この「日女道丘」が「姫山」に当たるとされています。

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