≪6世紀の末、蘇我氏と物部氏との間に争いが生じました。
用明天皇のお后で聖徳太子の生母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしうど)は、乱を逃れるために大浜の里に逃げてこられました。
昔は、間人を「大浜の里」と呼んでいたようです。
やがて争いも治まり、皇后は大和の斑鳩に帰ることになりました。
大浜の里を離れるとき、里の人々の手厚いもてなしに感謝して、皇后は自分の名を取って「はしうど」と名付けられます。
ところが、里の人々は皇后の名前を口にするのは恐れ多いとして、大浜の里を退座なされたのにちなみ「たいざ」と呼ぶようになった、ということです。≫
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「丹哥府志」は、当地に御所の壷なる地があり
「丹後旧事記云、此里と間人媛の由縁ありよって以て村名とす、今タイザとよむ。或云。間人媛は此村の人なり、蓋御所の壷は其跡なりといふ」
と語られる。
中世も間人郷で、室町期に見える郷名。
「丹後国田数帳」に「一 間人郷 廿伍町二段八拾二歩内」と見える。
≪「間人」と書いて「タイザ」と読む。
地名は難しいのが多いが、これは特別に難読地名として超有名である。
難読というより、タイザとは絶対に読めるわけがない不読地名である。
読めるわけないが、何か深い理由あってそう読んできたわけである。
大和と書いて「ヤマト」と読むのと同じような歴史があるのかも知れない。
大和はまだわかるが、間人は高度すぎるパズルでカブトを脱ぐより手がない。
もしかして偉そうに思っているかもしれないが、全然たいしたことないアホだと教えてくれて、その前では謙虚にならざるを得ない地名である。
地名はポツンと一つだけであることはまれで、周辺に似たような地名があるものだし、何かヒントになる神社なども鎮座していて、なにがしかの手かがりが普通はある。
それが、まったくないのが当地の地名である。
こうなると解明不能である。
数式で言えば、X=Y の関係がある。
ここからXとYを求めよ、千年以上も昔の数式でヒントになるほかの情報は何もない、ということで解けるわけはない。
まったくのラビリンスで、迷い込めばミイラになっても出てはこれない。
あれこれと勝手な説は思いついても、万人に正解だと納得させうるものは見つけ出せるわけがない。
そのうえ「タイザ」は日本語なのかもわからない、沖縄の万座とかここには座のつく地名が見られるし、アイヌ語とする説もある。
本当に日本語なのか、それとも南方海人語なのか北方アイヌ縄文語なのか、それとも渡来語なのか。
たかが地名と侮ってはならない。
当地の歴史を残したもので、歴史が解明できない以上は不明である。
古くからタイザと呼ばれていて、意味はすでに不明になっていた。
佳字を当てようにも当てようもない、大間港、小間港とか、今でいう湾や浦をここでも間と呼ぶが、竹野潟湖もあっただろうし、そこの浦人ということで間人と書こうか、とした、これくらいの想像しかできない。
位置が栄光の丹後王朝への入口のすぐ脇にあり、単に浦人であるわけがなかろうとも思える。
間人漁港「間人カニ」は特に有名で、冬の味覚の王者である。
間人港には、カニ漁船は確か5隻しかいない。
あと1隻が網野の浅茂川港にいるだけ、これだけで冬の日本海の荒波の中から水揚げする。
従ってスーパーなどにはなく、高価である。
シケが続けば漁に出られずモノがないかも知れず、金があっても喰えるとは限らないが、あったとしても喰うことはできぬ。
メスの小さいカニ、舞鶴や当地ではコッペとかセコガニと呼ぶが、せいぜいそれを喰うくらいで、1匹500~1000円程度で魚屋で売っている。
見てるとベッピンとか名がつくものもあって、これにも格があるよう。
オスの大きな間人カニは、1匹(正式には「杯」と呼ぶよう)1万円以上はする。
たかがカニくらい、そんなに高いはずがないと舞鶴人でも信じない人もけっこうあるが、本当にそれくらいが最低で、良いものなら3万円を越える。
松葉ガニというのは丹後以西の呼び名で、同じカニを北陸では越前ガニ、北海道の方ではズワイガニと呼んでいる) ≫
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京都府北端の丹後半島、竹野郡丹後町北西部に間人(昭和30年に合併して丹後町になる前は、竹野郡間人町)地区があります。
日本海に面する古くからの港で、漁業が発達し、近世には西廻り海運の重要港であり、丹後縮緬の産地でもありました。
『和名抄』にも、竹野郡間人郷の名がみえます。
この地名は
(1) 当地には蘇我・物部の争乱を避けて寄留した聖徳太子の生母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が退座されたことにちなむとの伝承があり
(2) 聖徳太子、穴穂部間人皇后をめぐる血縁関係、近親結婚関係をさして「間人(はしひと)」といったことによる(吉田東伍『大日本地名辞書』)という説
(3) 凹凸の激しい海岸(磯)をさす「タギイソ」が転訛したとする説
があります。
この「たいざ」は、旧間人町の東端、竹野川の河口左岸の後(のち)ガ浜に立岩(たていわ)という柱状節理の巨大な小山のような岩塊がそそり立っており、この立岩を指す名が地名となったもので、マオリ語の
「タイタ」、TAITA(drift timber
lodged in the bed of a river,snag)、「(海岸の)流木(のような岩=立岩(たていわ)。立岩がある地域)」
の転訛と解します。(なお、「タイタ」の語は、「タイ・タ、TAI-TA(tai=sea,tide;ta=lay)、潮流が運んできて置いた(木、岩)」と解することもできます。)
※ http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/index.html 引用
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