今回の旅は日程が5日も取れたため大阪、神戸にも回ってブラブラとしてきた後は、いよいよ14日に奈良へ足を踏み入れることに。初めての奈良だけに、定番コースの奈良公園からノンビリと回っていく事にする。
《太政官布達により、明治13年(1880年)2月14日開園。大部分が国有地で、奈良県が無償で借用し管理している。都市公園としての正式名称は「奈良県立都市公園 奈良公園」といい、総面積は502ha。周辺の興福寺、東大寺、春日大社、奈良国立博物館なども含めると、総面積はおよそ660ha(東西約4km、南北約2km)に及ぶ。通常は、この周辺社寺を含めたエリアを奈良公園と呼ぶことが多い。公園内には多くの国宝指定・世界遺産登録物件が点在し、年間を通じて日本国内のみならず外国からも多くの観光客が訪れ、日本を代表する観光地の一つとなっている。
奈良の大仏や鹿は国際的にも有名で、奈良観光のメインとなっており修学旅行生の姿も多く見られる。東大寺修二会やなら燈花会、正倉院展、春日若宮おん祭など古都ならではの見ごたえのある行事も数多い。塀・柵・門などがなく入園料も不要なのでどこからでも、いつでも(365日・24時間)散策することができる。なお、旧「史蹟名勝天然紀念物保存法」に基づく名称は「名勝奈良公園」である》
歩き始めると、直ぐに興福寺が見えてきた。東寺に次いで、日本で二番目に高い(約48m)と言われる五重塔を中心に三重搭、南円堂、北円堂、東金堂と国宝クラスの大建築がズラリと並ぶ偉容に、いきなり圧倒される。これらの鄙びた木造建築群と対比をなす芝生をのどかに歩いている名物の鹿が、奈良らしいアクセントをつけている。
《興福寺は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足と、その子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺である。古代から中世にかけて強大な勢力を誇り、鎌倉・室町両幕府は大和国に守護を置くことができなかった。南円堂は、西国三十三箇所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産に登録されている。
藤原氏の祖である藤原鎌足(614年 - 669年)夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階 (京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659年-720年)は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」 と名付けた。この710年が、実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後、まもなく開始されたものと見られる。その後も天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったため、手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園の殆どを領して事実上の同国の国主となった。 その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と、寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。鎌倉・室町時代の武士の時代になっても僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は大和国に守護を置けなかった。よって大和国は、実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土・桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされた。
興福寺は創建以来度々火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。 中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。東大寺とともに、大半の伽藍が焼失した。この時、興福寺再興に奔走したのは、回禄直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。現存の興福寺の建物は、総てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像も、この時期に数多く作られている。
江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいであった。明治元年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接的な打撃を蒙った。子院はすべて廃止、寺領は没収され僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。それに先駆け、興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は、奈良華族として還俗させられていた。
行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ徐々に寺観が整備され、現代に至っている。しかし、興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、この時に残された傷跡である。
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