2003/08/04

龍安寺(夏の京都part2)



《「きぬかけの道」は金閣寺から仁和寺まで続く体で四季が感じることできる京都人にも人気の散歩道です。この道沿いには有名な金閣寺、龍安寺、仁和寺と散歩コースだけで終わらすには勿体ないほどの京都観光スポットがあります。「きぬかけの道」の名前の由来は、夏の暑い日に宇多天皇が「雪景色を見たい」と言い衣笠山に白い絹をかけさせたことから「きぬかけ」と言われているそうです》
 
こうした情緒ある喩えは、いかにも京の雅であろう。衣笠方面では、金閣寺に次ぐ有名な龍安寺は作者不詳の石庭が名高い

<龍安寺は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。石庭で知られる。山号を大雲山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

龍安寺の石庭」として知られる枯山水の方丈石庭で有名な龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家の流れを汲む徳大寺実能以来、徳大寺家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたものである。初代住職として妙心寺5世住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てている。創建当初の寺地は現在より遥かに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。

龍安寺は、開基細川勝元自身が一方の当事者であった応仁の乱(1467-1477年)で焼失。勝元の子の細川政元と、4世住持・特芳禅傑によって長享2年(1488年)に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護している。近世の地誌類によれば、最盛期の龍安寺には塔頭(子院)が21か寺、軒を連ねていたという(現存するものは3か寺)

『都名所図会』のような絵入りの名所案内書(現代の旅行ガイドブックに相当)を見ると、当時、龍安寺の池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりもむしろ池を中心とした池泉回遊式庭園の方が著名であったらしい。寛政9年(1797年)の火災で仏殿など主要伽藍を焼失したため、塔頭の1つである西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)とした。鏡容池寺の南側には広大な鏡容池があり、周囲は回遊式庭園になっている。境内北側には方丈(本堂ともいう)、仏殿、茶室蔵六庵などが建ち、これらの西側には非公開の「西の庭」がある。西の庭には開基細川勝元の木像を祀る細川廟などがある。著名な石庭は、方丈南側の土塀で囲まれた中にある。なお、寺の背後には第66代一条天皇を含め5人の天皇の陵墓がある。

方丈(重文)
元の方丈が火災で失われた後、塔頭寺院の西源院の方丈を移築したもので、慶長11年(1606年)の建築である。木造であり、世界遺産である。本来ここには狩野派に手による71枚もの襖絵があったが、それらは明治期の廃仏毀釈の困窮により売却され散逸してしまった。現在のものは、昭和に描かれたものであり画題も異なる。

石庭方丈庭園(史跡・特別名勝)
いわゆる「龍安寺の石庭」である。幅25メートル、奥行10メートルほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を5か所に点在させただけのシンプルな庭である。近世の地誌類には、室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが、作者、作庭年代、表現意図ともに諸説あって定かでない。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものとも伝えられる。
 

15個の石は、庭をどちらから眺めても必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されているという。しかし、中の部屋から1ヶ所だけ15個の石すべてが見える位置がある。ハルト・バン・トンダとマイケル・ライオンズによれば、それは方丈の間の中心であり、15の石の配置は、ここを根元とする「二分岐構造」になっているという。ただし、この程度の面積の庭に15個の石を並べれば、そのうちの一つは隠れて見えなくなるのは、むしろ当然のことだとする意見もあり、これを表現意図とする考え方には賛否両論がある。なお、東洋では十五夜(満月)にあたる「15」という数字を「完全」を表すものとしてとらえる思想があり、15に一つ足りない14は「不完全さ」を表すとされている。また、日本には日光東照宮の陽明門にみられるように「物事は完成した時点から崩壊が始まる」という思想があり、建造物をわざと不完全なままにしておくことがある


この庭には、近世以来「虎の子渡しの庭」の別称がある。この庭を「虎の子渡し」というC国の説話と結び付けるのは伝承にすぎないが、参考までに説話の概略を以下に示す。

虎は3頭の子どもがいると、そのうち1頭は必ず獰猛で子虎だけで放っておくと、その獰猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで母虎が3頭の虎を連れて大河を渡る時は、次のようにする。
母虎はまず、獰猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。
次に、残った2頭のうち1頭を連れて向こう岸に行くと、今度は獰猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3頭目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1頭だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る。つまり、3頭の子虎を渡すのに3往復半するわけである。龍安寺の石庭は、この様子を表わしたものだというわけである。

イギリスのエリザベス女王が1975年に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。女王が石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道された。そのため昨今では世界各地での日本の「ZEN(禅)ブーム」と相俟って、日本人より海外の観光客の来訪者の比率が高いといわれている

知足の蹲踞太平記12冊(重文)
『太平記』の古写本の代表的なもの。徳川光圀が本書を借用したことでも知られる。1929年に火災に遭い、全13冊のうちの1冊を焼失。残りの12冊も焼損痕が残っている。

知足の蹲踞(つくばい)

茶室蔵六庵の露地にある。蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水を張っておく石のこと。ここの蹲踞には「吾唯足知」(われ、ただ足るを知る)4字が刻まれているが、その意味合いから石庭の石が「一度に14個しか見ることができない」ことを「不満に思わず満足する心を持ちなさい」という戒めでもあるといわれる。また水を溜めておくための中央の四角い穴が「吾唯足知」の4つの漢字の「へん」や「つくり」の「」として共有されているのが見どころであり、そのため一見「五・隹・疋・矢」と読める。徳川光圀の寄進と伝承されているが、一般拝観者が見ることできるのは複製である>

 総門を入った境内に広い庭園がある。衣笠山を借景とし鏡容池という大きな池を中心に設計されており、その広々とした周囲をグルリと回ると石庭の緊張感とは違い心の落ち着く感じがして、観光客こそは少ないが寧ろこちらの方がワタクシの好むところである。
※Wikipedia引用

0 件のコメント:

コメントを投稿