2003/08/27

興福寺の文化財(古都へpart2)



 かつての興福寺には中金堂、東金堂、西金堂3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像が安置されていた。寺の中心部には南から北に南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には南から五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建っていた。この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は、創建以来度々火災に見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治期以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり、天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。

中金堂は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは「中金堂」と呼ばれている。創建以来、度々焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、篤志家の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り小さかったが、興福寺国宝館の開館(1959年)までは、高さ5.2メートルの千手観音像をはじめ、多くの仏像を堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。

あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きであるものの安価なマツ材が使用されており、経年による雨漏りが酷くなり1974年に中金堂裏側に仮金堂(奈良・薬師寺の旧金堂を移築したもの)が建てられ、本尊などはそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年に解体されている。なお創建1,300年の2010年完成を目指し、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内の整備が進められている。

仮金堂内には、興福寺の本尊である釈迦如来坐像(江戸時代の再興)の他、以下の諸仏を安置する。


・木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(重文)
像高3.6メートルの巨像 。現在は中金堂本尊釈迦如来像の両脇に安置されるが、本来は廃絶した西金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として、鎌倉時代の建仁2年(1202年)造立されたもの。

・木造四天王立像(重文)
元南円堂にあったもの。鎌倉時代、運慶の父・康慶一門の作。

・東金堂(国宝)
神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建した。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。東金堂はその後、応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建である。室町時代の建築であるが規模、形式ともに天平時代の堂に準じている。堂内には、以下の諸仏を安置する。

・銅造薬師三尊像(重文)
中尊は応永18年(1411年)の火災後、再興像で室町時代の作。脇侍の日光・月光(がっこう)菩薩像は応永の火災の際に救出されたもので、奈良時代の作である。

・木造維摩居士(ゆいまこじ)坐像(国宝)
本尊薬師如来の向かって左に安置。鎌倉時代、建久7年(1196年)、定慶(じょうけい)の作。維摩は仏教経典に登場する伝説上の人物であるが、実在の老人のようにリアルに表現されている。

・木造文殊菩薩坐像(国宝)
本尊薬師如来の向かって右に安置され、上記維摩居士像と対を成す。作者は不明だが維摩像と同じ頃、定慶の手になるものと推定される。「維摩経」に説かれる、文殊と維摩の問答の場面を表現したものである。

・木造四天王立像(国宝)
堂内四隅に安置。堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像。

・木造十二神将立像(国宝)
薬師如来を守護する12の眷属の像。鎌倉時代、建永2年(1207年)頃の作。  各像のダイナミックな姿勢と、12体の個性を彫り分けた群像表現が見所である。

・五重塔(国宝)
天平2年(730年)、光明皇后の発願で創建された。現存の塔は、応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.8メートルで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ日本で2番目に高い

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