2003/08/30

「奈良の大仏」(古都へpart5)


 猿沢池から浮見堂の浮かぶ鷺池をグルリと回りながら、奈良の空気を肌一杯に吸い込みつつ、東大寺大仏殿の前に立つ。

 <東大寺は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。「金光明四天王護国之寺」ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。
 




奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置付けられた。
 

 東大寺の起源は大仏造立よりやや古く、8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。

 天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ寺名は金光明寺と改められた。大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは、天平20年(748年)が最初である。

 聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは、それより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻るとともに、大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会が挙行されたのは、天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことである。


 東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖」と呼んでいる。大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。

 天平勝宝8歳(756年)52日、聖武太上天皇が死去する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。74日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して

 「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」

 と謀反を白状した。ここで、永手は

 「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」

 と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。

橘奈良麻呂の乱は計画性に乏しく、軽率と言えば軽率ではあった。しかしながら、反乱の口実にまで東大寺が利用されたということは、東大寺建立自体が天皇の理想を実現させるという、ただそれだけのために実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した、途方もない一大プロジェクトであったことをも白日の下に晒した>

 子供の頃に見たおぼろげな記憶では、かなり大きい印象が残っていただけに
 (あれっ? 
 こんな程度の大きさだったっけ?)

 と、改めて見直してみる。


 この奈良大仏よりは3mは高い18.8mある愛知県・東海市にある「聚楽園大仏」を何度も見ていたせいであろうか。 片や聚楽園大仏の方は、近所の工場の煙突から出る煙を長年に渡りモロに浴び続けているため、煤ですっかり汚されてしまっているのに対し、こちらの盧遮那仏サマの方は大仏殿のような世にも立派な建物の中に安置されているのだから、幸せ(?)ではないか。

 奈良時代の東大 寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東に は食堂(じきどう)があり、南大門-中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100メートルと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している

 東大寺は、近隣の興福寺とともに、治承41228日(1181115日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を始めとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され大仏や諸堂の再興に当たったのが、当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には再建大仏殿が完成。源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。

 その後、戦国時代の永禄101010日(15671110日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔は、またも焼失した。仮堂が建てられたが、慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し、大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶上人(1648-1705年)の尽力や将軍徳川綱吉や母の桂昌院を始め、多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。

 この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の27間に縮小されている。また講堂、食堂、東西の七重塔など近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている。
※Wikipedia引用

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