しばらく鹿と戯れてから、春日大社へと向かう。
《春日大社は、奈良公園内にある神社である。旧称春日神社。式内社(名神大社)、二十二社の一社で旧社格は官幣大社。全国にある春日神社の総本社である。藤原氏の守護神である武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって藤原氏の氏神とされ、春日神と総称される。神紋は下がり藤。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされる。奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。
社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。
藤原氏の隆盛とともに、当社も隆盛した。平安時代初期には、官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。850年(嘉承3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。延喜式神名帳には「大和国添上郡
春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。
藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴が度々行われるようになったが、その手段として春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。明治4年に春日神社に改称し、官幣大社に列した。1946年(昭和21年)12月に現在の春日大社に改称した。
春日造の本殿が四殿並んで建っており、第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神が祀られている。拝殿はなく、一般の参拝者は幣殿の前にて初穂料を納めて特別拝観を申し込んだ場合は、本殿前の中門から参拝することになる。広大な境内には、多数の摂末社がある。本殿の東側には比売神の御子神として天押雲根命を祀る摂社若宮神社があり、若宮神社、夫婦大国社を始めとする本殿東側の十二社は「福の神十二社めぐり」として古来より崇敬を集めている。本殿廻廊の西南隅には、摂社・榎本神社(式内小社)がある。榎本神社の祭神は当地の地主神であり、元々この地で祀られていた神であるとされる。現在の祭神は猿田彦大神であるが、中世までは巨勢姫明神とされていた》
※Wikipedia引用
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この日(14日)と翌日(15日)に行われる「中元万燈篭」のための下見に春日大社を拝観しておいてから、お目当ての東大寺へと移動した。
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