●『丹後町史』間人の地名
「間人」と書いて「タイザ」と読む。
昔からの文献を拾ってみると、和名抄(十世紀初頭)は間人→マウト説、大日本地名辞典では「間人っ」は愛人(ハシキヒト)の意、また上代の土師部(ハジベ)の人のこと、土師人(ハシヒト)の意かともいい、一色軍記(十五世紀)には「対座」(タイザ)と出ている。
丹後旧事記は間人皇后説、海東諸国記(十五世紀)には「田伊佐津」とでている。
現在、定説となっているのは、泉氏所蔵「間人村濫觴記録」である。
原文にそってわかりやすく書くと、次のようである。
人皇三十一代用明天皇に厩戸の皇子御誕生、後の聖徳太子である。
御母は間人皇后と申し、徳高く貞操の女御であられた。
時あたかも物部守屋の大臣叛逆にあられ、世の乱れをお避けになり、しばらく谿羽の国竹野郡子の日崎に程遠からぬ「内外の浜」なる「大浜の里」にお出でになられた云々。
※旧記にいうには、内外の浜は今の後の浜であり、子の日崎は今の犬ケ岬を指す。
なお大浜の里は今の間人村を指し、海岸の大きい所から呼んだ別各であろう。
大昔は間人村を「大浜の里」とも言い、東に中浜村西に小浜村があるので、内外の浜なる大浜の里といったことも頷けるところである。
それにしても、その頃は家数も僅かな小さな村、東西一里その中間に船の出入できる港があって、それが今の大間港である。
常に漁猟を中心に、生活を立てていた。
常に漁猟を中心に、生活を立てていた。
この時、間人皇后に仕えて来た人々、東漢直駒・木目見宿禰・蒲田麿興世朝臣・下戸部大連・小坂部民谷・穂見中江麿・中臣村主・そのほか末々の人々お供として大浜の里に難を避けられ、村の中の小高い山に御座所を設けて、ここに世の乱れをお避けになった。
しばらくして守屋の大臣が亡ぼされて、世の中が収まったので、大和の国班鳩の宮へお帰りになった。
この大浜の里を去るにあたり、御歌一首を賜わった。
この大浜の里を去るにあたり、御歌一首を賜わった。
大浜のあら塩風に馴れし身の またも日嗣のひかり見るかな
また「今日よりこの里を間人(はしふど)村と名付くべし。」と仰せられ、さらに御歌二首を賜わった。
大浜の里にむかしをとどめてし 間人村と世々につたへん
大浜につとふみやこのことの葉は 行末栄ふ 人の間人
御歌三首、御染筆を賜わり持ら伝えられていたが、皇后の御名を口にすることを畏れ多いとして、文字はそのまま皇后の御名を用い、この大浜の里を御退座されたのにちなんで、間人村(退座)と宛名したのである。
これが、いわゆる間人村の起源である。
その時、供奉の人々子孫をこの里に留め、東の姓は鼻祖東漢直駒の子孫で東を取り、その血脈二派三派に分かれ、連綿として続いている。
また木目見宿禰の子孫が相見、木目を合せて相見の姓とした。
蒲田麿興世の子孫蒲田をとりて氏とし、小坂那民谷の子孫に派に分れれて今の小谷氏と谷氏となり、下戸部大連の子孫今の下戸氏である。
穂見中江麿の子孫が中江、中臣村主忠世の子孫臣を省いて中村氏となっている云々。
維時弘化丙午孟夏(一八四六年)、前田俊菴菅原為善謹誌とある。
※物部守屋の反乱は五八七年である。
源蔵氏研究の『間人名称の考証』によると、タィザ(間人)と言う名称の起因は、アイヌ原語で「タイ(森林)」、「ヒット(人)」で、その後、年数の経過するに従い「タイヒト」が「タイジャ」となり「タイザ」と称するに至れりとある。
元来、アイヌ語には濁音はないが、後世天孫民族と言われる日本人の移遷同化によって、多年の歳月の間に語音の変化をきたしたのは首肯せねばならないとして、間人町東部、朝日夕日の望める白い砂浜を後浜(ノチ)と呼ぶ。
これはアイヌ語の「ノト」(鼻又は突出地)を、何時の時代からか「ノチ」と訛り称するようになったと説明する。
アイヌ語の「マア」(湾又は間)現在ナア浜、大間、小間がそれであり、小泊の地名がその一例だという。
現に間人の中に、アイヌ語ではないかとされている岩の名や地名が、古老の間に固有名詞として数多く残されている。
「ソフタ」、「タンジュウ」、「マンノオ」、「シウセ」、「ヤント」、「シイロ」、「パッタリ」、「メグリダニ」、「ツバキ」、「ヤゴダンバ」、「ナアハマ」、「ケンギョウ」、「コヨクビ」等である。
氏は間人の先住人等が現代まで数千年の間、土地の名称音語を変えないで、そのまま呼び伝えていたことを感謝しておられる。
結論づけると「タイヒット=間人=森林の人」にまとめられる説となる。
このことは、さらに研究を必要とする点であるが、しかしいつの時代から「タイザ」を「間人」と記すに至ったかは、なお疑問であった。
ところが最近になって府立丹後資料館から、この問題に考証を与える貴重な資料が提供されたのである。
それは発掘調査中であった奈良平城宮跡東南隅、大路雨落の溝から昭和四十年発見された物件である。
当時、全国各地より奈良の都に貢進物を送った梱包の荷札、すなわち木簡が発見されたことである。
「丹後国竹野郡間人郷土師部乙山中男作物海藻六斤」
と墨書され、しかも年代は七六九年であることも明瞭である。
このことにより、物部守屋の乱を逃れて穴穂部間人皇后が自分の御領地である間人に難をさけられたのが五八七年であるから、それより百八十二年後になるので、泉氏の濫膓記録は少しも矛盾しないのである。
蘇我物部の反乱も、木簡の年代も史実であり、又太古畿内と丹後の深い関係から考え、これを否定する根拠は無くなったと言える。
今から千二百余年前の木簡に、墨色鮮かに「間人」と二文字が記されていたのである。
ゆかり深い「間人」の地名は、古くから存在したことは確かである。
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